黒澤明の「黙示録」:赤富士・鬼哭・水車小屋のある村 

黒澤明の「夢」という作品を観たのは20年くらい前だったろうか。この作品の中の終わりの三つの「夢」、「赤富士」、「鬼哭」、「水車小屋のある村」は、預言者的精神に満ちた傑作である。それは、芸術家の想像力の世界の中で、二〇年後の日本を予言した驚くべき作品である。この映画は3月12日にケーブルテレビ(日本映画チャンネル)で配信される予定であったが、聞くところによれば、6基の原子力発電所が暴走・爆発し、人々が逃げ惑うシーンが含まれていたために急遽、放映中止になったそうである。

芸術作品を現実と混同する愚かさは避けねばならぬが、この映画は実に、洞察と予見に満ちた作品である。
まず、暴走する原子力の火によって赤く変色した富士が、現在の日本の於かれた状況を(芸術家の想像力の世界の中で二〇年前に)見事に予見している。
そして、6機の原発が次から次へと暴走・爆発して、逃げ場を失った群衆が叫ぶ台詞。「狭い日本にいる私たちは一体何処に逃げられるというの?」
そして、「原発が絶対に安全だと言っていた連中の首を絞めてやりたい」と怒る母親にたいして、「放射能が代わりにやってくれるさ」と答える科学者のアイロニー
前のブログで私は「黙示録的状況」という言葉を使ったが、実に黒澤明は二〇年前に「日本の黙示録」を映画で表現していたのである。
この映画は、原発放射能によって自然環境が崩壊した後の状況を「鬼哭」で表現しているが、そこには水俣病などの公害によって苦しむ人々のイメージも投影されているようだ。
しかし、この映画の最終場面で、黒沢は未来への夢をも描いている。「水車のある村」は、彼が未来に投げかけたユートピアであろう。そこでは電機を使わない村が描かれ、自然と共生する人々の牧歌的な姿が描かれている。

原子力に象徴される巨大プラント、「エネルギー革命」の時代の破局と終焉を黙示録によって伝える映画ではあるが、その破局の後に垣間見た「自然と人々の共生」というビジョンを映画という媒体を通じて表現した映画が黒沢の「夢」である。赤富士と鬼哭の悪夢から醒めて、「水車小屋のある村」を正夢とするような環境/生命の文明に向かうべきであろう。