京都医療科学大学学長の発言に苦言を呈す

首相官邸のWEBサイトに、「祖父母の幸せ−−放射性物質のもう一つの顔」 (平成23年5月12日) (遠藤 啓吾・京都医療科学大学 学長) という記事が掲載されている。短いものであるから、全文を引用しよう。

放射性物質ヨウ素-131」を、100億ベクレル以上。 これは今から26年前、甲状腺がんの手術と、肺への転移の治療のために、私がある女子高校生に3回にわたって投与した放射線量です。このヨウ素-131だけでなく、同様に今回の原発事故で大気中に放出されているセシウム-137、ストロンチウム-90などの放射性物質やその関連物質は、病院では患者の治療に使われているのです。当然、人体への影響もかなり研究されています。 特にヨウ素-131は、50年以上前からバセドウ病甲状腺がんを代表とした甲状腺などの病気の治療に、カプセル剤として投与されています。ヨウ素-131の出す放射線の作用で、狙った細胞に強く障害を与えようと、病気の部分にできるだけ多く集まるように工夫しながら大量に投与します。 (とは言え、放射線による障害はできるだけ少なく抑えた方がよいのは、当然のことです。そこで、病気の《診断》と《治療》では、異なる考え方に立ちます。昔は、甲状腺の《診断》にも少量のヨウ素-131が使われていたのですが、今では、それよりも放射線障害の少ないヨウ素-123などが使われるようになりました。) バセドウ病は、ヨウ素-131を服用して2ヶ月くらいで治ります。冒頭でご紹介した女子高校生のように、甲状腺がんの肺転移の治療の場合は、それよりもさらに大量の投与で、治癒を目指します。  −−−今回の事故以来、テレビで解説をする機会が増えた結果、先日思わぬお手紙をいただきました。まさにその、26年前の高校生の御両親からの近況報告でした。「テレビで、昔とお変わりないお姿を拝見しました。当時16才で高校生だった娘は、甲状腺がんの肺転移で、親にとって希望のない毎日でした。しかし、治療していただき、その後結婚、出産。このほど、その子供が高校生となりました。娘は、今も会社員として仕事しながら、幸せに暮らしています。」 がんを克服した自分達の娘が伴侶を得て、高校生になった孫と幸せに生活している祖父母の喜びが、目に浮かびます。このようなお手紙をいただくと、医者冥利につきます。
遠藤 啓吾 京都医療科学大学 学長

なぜ上のような記事が、原発事故によって大量に放出されたセシウム-137、ストロンチウム-90、ヨウ素131などの環境汚染が深刻化している時期に、首相官邸のHPに掲載されるのであろうか。

医学で放射線治療が行われるという事実から、放射線悪玉論は間違いで、善玉という「もうひとつの顔」を持つことを指摘するというのが遠藤啓吾氏の云いたいことのようであるが、それにしても上で引用した文は、社会的責任を有する大学の学長の発言とも思えぬ軽率さがある。氏は自分の発言がどのような政治的文脈で引用され、どのような政治的目的に利用されるかをよく認識した上で発言されたのであろうか。

放射線が医療に使われていることは事実である。たとえば、難治性白血病の標準的な治療法は、抗がん剤寛解させたあとで、再発防止のために放射線治療をする。放射線は細胞の新陳代謝機能・造血機能をだめにしてしまうので、大変に有害であるが、その有害性を逆用して、白血病にかかった細胞を完全に破壊し,患者の造血機能まですべてを破壊したのちに、無菌室に患者を入れて、血液だけでなく造血幹細胞や骨髄移植をするという荒療治である。どうしても普通のやり方では治癒せず、再発の危険が大きい難治性の患者に施すのが普通である。放射線障害の深刻な副作用があるが、患者の命を救う可能性がある場合だけに使われる治療である。言うまでもないことであるが、放射線が体に良いわけでは決してない。

放射線治療の前に使われる「抗がん剤」にしたところで、ドイツが第一次大戦で毒ガスを使ったときに、たまたまその毒で癌が治った兵士がいたことがきっかけになって発見されたものである。つまり、「毒を以て毒を制す」というのが抗がん剤による治療の考え方。 だから、抗がん剤白血病寛解したからといって、誰も普通の人に毒ガスと同じ成分を持つ抗がん剤を推奨したりはしない。放射性ヨウ素ストロンチウムが癌やパセドウ氏病治療に役立っているというのも、それとおなじである。それらは,健康な人に決して投与してはならないものある。

最近、政府もしくは官僚が、学術会議やがんセンターなどに働きかけ、「実は放射能なんてそれ程怖くない」という宣伝をしようとしているのではないか。そうだとすれば、学者たるもの、このような政治的要請に軽々しく応じるべきではなかろう。結果として曲学阿世の譏りを免れない。