終末的・黙示録的状況を直視して平常底を生きること

福島原発の事故を報道する欧米の新聞やテレビの報道の中でしばしば Apocalypse (黙示録)と言う言葉が使われている。
たとえば Ghost Island: Apocalyptic scenes in tsunami worst-hit Japan areas と題する以下の映像を見てみよう。

ユダヤ・キリスト・イスラム教の影響を受けた「聖書の民」からすれば、このような情景は、世界の終末・審判の時を連想するものである。津波によって乗用車がビルの上に乗り上げたり、燃えさかる家が流されていく情景、そして津波が襲った後の廃墟の有様などは、まことに世の終わりという感じを人に与えるものなのだろう。
また、福島第一原発の一号機が水素爆発をおこした情景が放映されたときも、地震津波、につづく破局として、「黙示録」という言葉が盛んに使われていた。3号機がおなじように水素爆発したときに、東電社員が一時的に待避したとき、一部の報道機関は「東電が原発を見捨てた」と書いたが、その水素爆発によって建屋が吹き飛んだ情景は、まさに世の終わりを連想させるものであったろう。誤報であったとは言え、50人を残して作業員が引き揚げたという事実は、日本よりも外国の方でより深刻に受け止められたことはいうまでもなかろう。実際、第一原発の近くでまだ避難せずにいた住民tちはその凄まじい爆発音を聞いたときには、文字通り世の終わりが来たと実感したであろう。 

これに対して、原子力開発を専門とする科学者たちは、宗教的な受け止め方とは違って、福島原発は「黙示録」ではないと強調している。
たとえば、Bulletin of the atomic scientists(3月30日)に寄稿した、Ramamurti Rajaraman 氏は、福島は産業的な破局ではあるが、核の「黙示録」ではないと言っている。

その理由として氏は
(1)3月11日の地震津波の直撃のほうが、その後に続いた放射能漏れよりも遙かに致命的である。
(2)福島第一原発の危機はパニックを引き起こすような原因ではなく、全世界の原発の安全性を向上させる機会である。
(3)核災害は、いくつかの積極的な結果をもたらすものであり、それには現在稼働中の原発の新たなる点検と未来の原発の改善などがふくまれる。

私はこのブログの前の記事で、脱原発の立場を明瞭にしたが、上に引用したRamamurti Rajaraman氏のような意見を持つ科学者は多いのではないかと思っている。彼らは、科学技術そのものの有つ危険性ということを無視している。福島原発のように同じ場所に6機の原子炉と3000本の使用済み核燃料のあるところで同時に複数の原子炉で炉心溶融が進行すれば、それこそ地震津波とは比較にならぬ「黙示録的状況」が出現するであろう。科学技術は人間が永遠に生き残るということを前提にしているようだ。ちょうど、すべての電源が喪失する状況をリアルな可能性としてまともに問題にしていなかったのと同じように、原発プラントが炉心溶融をおこして、暴発し、死の灰をまき散らすという現実的な可能性を考慮していないのである。ここに科学的・技術的な知そのものの限界がある。

私は現代は文明の転換期であると言った。この文明は完全に亡びるかも知れないーそういう認識が必要であろう。そのような終末論的な意識・黙示録的な自覚を促すものとして、今回の自然災害と原子力災害を受け止めるべきだと思う。

我々に必要な知は、科学技術の知ではなく、人知の限界と世の終わりが恒に我々の現在に差し迫っているという終末論的な知である。
その終末の時代を直視しつつ平常底を生きること、終末をつねに先取りしつつ平常心をもって現在を生きることによって、はじめて我々の文明の未来を語ることが出来るのではないか。