「サヨンの歌」と「サヨンの鐘」

   サヨンの歌

作詞:西条八十  作曲:古賀政男  歌唱:李香蘭

花を摘み摘み 山から山を 歌いくらして 夜霧に濡れる わたしゃ気まぐれな 蕃社の娘 親は雲やら 霧じゃやら ハイホー ハイホー
谷の流れが 化粧の鏡 森の小枝が 緑の櫛よ わたしゃ朗らか蕃社の娘 花のかんむりで 一踊り ハイホー ハイホー
月の夜更けの 杵唄聞いて 何故に涙よ ほろほろ落ちる わたしゃ年頃蕃社の娘 深山育ちの 紅い花 ハイホー ハイホー
紅の檜に 黒髪寄せて 遠く眺める 浮世の灯かり 泣くな可恋鳥 おまえが啼けば 山の蕃社に 霧が来る ハイホー ハイホー

この「サヨンの歌」は、渡邊はま子がレコードの吹き込んだ「サヨンの鐘」とともに今でも台湾の人々に愛唱されている曲である。李香蘭の出演した映画が凡てそうであったように、映画そのものよりも主題歌の方が生命力を持っているようだ。サヨンの歌は、映画のことなど知らなくても十分に楽しめるし、その明るい牧歌的なリズムは記憶に残る。映画そのものは、ビデオ化されているし、フィルムセンターなどでも見ることが出来る。日本の台湾に於ける皇民化政策がいかなるものであったかを知るための歴史的資料として上映されることもある。

昭和18年といえば、李香蘭は、「私の鶯」「萬世流芳」「誓ひの合唱」「戦ひの街」「サヨンの鐘」と5本の映画に出演するという強行スケジュールであった。そのためもあろうか、この「サヨンの鐘」の李香蘭の歌唱、とくに「台湾軍の歌」とか「海ゆかば」などをきくと、僕は、なにか思い詰めたような当時の日本人の心を彼女の歌が体現しているような、そんな印象を受けてしまう。とにかく僕は彼女の歌う軍歌を平常心ではとても聴くことが出来ない。
 全力投球で、「お国のために」尽くしていたのは、李香蘭だけでなく渡邊はま子もそうであった。もともとサヨンの殉難の事件を聴いてそれに心撃たれてサヨン顕彰の運動を積極的に推進し、「サヨンの鐘」を歌ったのは渡邊はま子であった。そこには、台湾の人々に自らの大和魂の反映を見いだすことによって高揚された内地の日本人の「愛国」の情熱というものがあったに違いない。ちょうどヨーロッパやアメリカの宣教師たちが植民地に赴いて原住民に教育を施し、彼らをキリスト教文明の恵みに浴させることを使命感を以て活動したのと同じように、日本人は皇民化政策によって、「日本文明」の宣教を台湾で行おうとしていたのである。そういう視点から見れば、サヨンは、日本精神の「殉教者」なのであり、顕彰されるべきヒロインなのであった。
 大東亜共栄圏の中核となるべき日本精神ないし「日本教」は、キリスト教ほどの普遍的な広がりや影響力は持ち得なかった。民族宗教の限界を越えられなかったというよりも、むしろ「剣に頼るものは剣にて滅びる」の実例となったというべきか。満州や朝鮮には、おびただしい数の神社が建設されたが、それらは日本の敗戦とともに破壊されてしまって見る影もない。ただし、満州や朝鮮とは違って、台湾には、日本人がとうに忘却してしまった「日本精神」を日本人以上に大切にし、それを懐かしむ人がいるということも事實であるが。
 現在、「サヨンの鐘」の舞台となったタイヤル族の村には、カトリック教会があるが、そこの年配の信徒のかたが「サヨンの鐘」を日本語で歌っている情景もYoutubeにアップされている。今の若者にとっては日本統治時代を偲ばせる遠い過去の出来事であろうが、音楽だけはいつまでも歌われ続けるだろう。

   サヨンの鐘
 作詞:西条八十 作曲 古賀正男

 嵐吹きまく 峰麓 流れ危ふき 丸木橋 渡るは誰ぞ 麗し乙女 紅き唇 ああ サヨン
 晴れの戦に 出て給ふ 雄々し師の君 なつかしや 荷なう荷物に 歌さへ朗ら 雨は降る降る ああ サヨン
 散るや嵐 に花一と枝 消えて悲しき水煙り 蕃社の森に小鳥は啼けど 何故に帰へらぬ ああ サヨン
 清き乙女の真心を 誰か涙にしのばるる 南の島のたそがれ深く 鐘は鳴る鳴る ああ サヨン