沈黙の音ー一九六〇年代の預言者、ポール・サイモンの歌を聴く

原発関連の記事を書きながら、私は科学者や経済学者の論説だけでなく、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」や、黒澤明の「赤富士」、そして大江健三郎の「広島ノート」などの文学者の書いたものにも耳を傾けるようにしてきた。彼らは、科学者とは異なった視点から現在の我々の置かれた状況を照らし出してくれているように思うのである。そして今は、私の耳にポールサイモンの作詞作曲した「沈黙の音ーSound of Silence」が鳴り響いてきた。1960年代に青春を過ごした人ならば、かならずどこかで聴いたであろう。一度聴いたら忘れない旋律のせいで大ヒットした曲であったが、ユダヤ人であったポールのなかにある預言者の精神が紡ぎ出した歌詞は、当時の大多数の日本人にはよく分からなかったのではないだろうか。しかし、3/11の大海嘯と原発震災という黙示録的出来事を経験した日本人にとって、旧約の預言者の精神を受け継ぐこの歌詞は、もはや他人事ではないであろう。

私は、「沈黙の音」が「がん細胞のように肥大していく」にもかかわらず、何万人もの人が煌々と照らし出された都会の夜の道を、語りかけることもなく喋り、警告に耳を傾けることもなく、「ネオンの神」に聴従している、そういう悪夢のような情景を詠むポールサイモンの歌詞に引きつけられた。

And the people bowed and prayed     そして、人々は頭を下げて祈った。
To the neon god they made.        自分たちの作ったネオンの神に。
And the sign flashed out its warning.  すると、警告の言葉が「徴し」となってきらめいた。
In the words that it was forming.    明確な形となった言葉で。
And the signs said.           その「徴し」はこういった
"The words of the prophets are written on the subway walls  預言者の言葉は地下鉄の壁に書かれている。
And tenement halls."           そして、下宿の廊下にも。
And whisper'd in The Sounds of Silence.  そして、沈黙の音の中でささやいた。

この人々が跪く「ネオンの神」とはなにか。それは夜空を人工の光で照らす近代文明の富の象徴であろう。地下鉄もまた文明の利器の代表である。そういうものを享受している我々のただなかで、あの預言者の声が聞こえてくるのである。現代の「預言者」の言葉は、おそらくネオンの神という物神崇拝を斥ける人々の言葉として、「がん細胞のような沈黙の音」に抵抗して語られるであろう。

「米国スリーマイルズ島原発事故の問題点ー事実が示した原子力開発の欠陥(1979 岩波「科学」6月号掲載)ーを再読する 

小出裕章氏の著書、論文、講演録の一覧は、日本の原子力発電プラントの安全性を再考する上で必読の文献が数多く載っている。これを読むと、今回のフクシマ原発震災が起こる以前に小出氏をはじめとする京都大学原子炉研究所の研究者達が、科学的事実に基づいて、いかに重大かつ適切な警告を発していたかが分かる。その意味でこれは必読の文献であり、そのすべてを読むことは難しいにしても、現在、ネットで公開されている文献のリンクをたどって、ひろく読んで頂きたいと思った。

そのなかから、今日はとくに1979年の<科学>(岩波書店)に掲載された「米国スリーマイルズ島原発事故の問題点ー事実が示した原子力開発の欠陥ー」をとりあげたい。なぜ22年前の論文を取りあげるかと云えば、ここに現在フクシマで問題となっている日本の原子力政策の根本的な欠陥が明確に指摘されているからである。過去の失敗を失敗と認めずに、そこから何も学ばなければ、同じような過ちを繰り返すということは誰もが認めねばならぬ基本原則であるが、我々は、TMI事故から現在までの22年間、小出氏をはじめとする京都大学の原子炉研究者達の警告から何も学んでこなかったのである。ここにそれを再録し、今日の視点で読み直すことには意義があると思う。

TMI(スリーマイルズ島原子力発電所)の事故については Wikipedia の記事を参照されたい。「起こるはずがない」と云われてきた原発事故が「事実として起こった」場合、日本の原子力安全委員会通産省、電機事業連合会は、どんな対応をしたであろうか。
3月28日に大事故が発生し、米国のNRが「破局的状態に直面している」と発表、州政府が緊急事態宣言をはしていた段階で、原子力安全委員会は、早々に、「日本では安全審査や使用前審査が厳しいので、このような事故は起こらない」という委員長談話を発表し、これをうけて通産省は、住民からの原発一時停止要求に対して、「安全委員会が安全と云っており、(日本の原子炉を)停める必要性はない」と応じ、電気事業連合会は「米国のような大事故は起こりえないと確信し」「原発は停めない」と安全宣言を出した。ところが、その後、4月7日になって、ウエスチングハウス社が関西電力に対して緊急炉心冷却装置(ECCS)の操作手順の変更を勧告し、NRCが「WH型原子炉でもECCSは機能しない可能性がある」と警告するに及び、日本の関係者はてんやわんやの大騒動と成り、4月13日深夜になってようやくWH型原発大飯1号を、ECCS作動にかんする安全性が確認するまで一時停止することを決定したのである。
こういう原子力安全審査の杜撰さ、開発規制を目的とする安全委員会に通産省の推進派がはいっているという不可解さ、自発的に安全のための対応をすることをせず、米国からの技術的警告がきてあたふたと動くという体質は、22年後の今も実質的に変わっていないのである。原子力安全・保安院が設置された後の審査状況を見る限り、事態は更に悪くなったと云うべきではないだろうか。
1979年岩波「科学」6月号の論文(以降TMI論文と略記)は、事故原因を学問的に検証したものであり、その論述は

<1> 原発の構造と本質的危険性
<2> 事故の経過と状況
<3> 炉心冷却可能形状の喪失
<4> 事故によって明らかとなった原発の安全性の実態
1. 原発安全論の破綻 
(a) 補助給水系は「フール・プルーフ」になっておらず、「多重性」も破られた
(b) 圧力逃がし弁に「フェイル・セーフ」はありえない
(c) 加圧水位計は、事故時原子炉の状態を示さない。
(d) 格納容器による環境中への閉じこめは不可能である
(e) 一次循環ポンプは機能を喪失していた
(f) 大量の水素による影響は見過ごされた
2. 役に立たないことが実証されたECCS(緊急炉心冷却装置)
3. 過去の論争で指摘されていた危険性
結論と追記

の順で整然とすすめられている。このうち、とくに22年後のフクシマにおいてさえ生かされなかった警告は、「多重性(安全防護を何重にも設定しているので確率論的に事故は起きないという考え方)が破られた」という指摘、「格納容器による環境意中への閉じ込めは不可能である」こと、「大量の水素による影響が見過ごされた」という警告であろう。
TMI論文は結論を次のように要約している。

(1)安全委員会によって「絶対」起こらないと想定されている種類の事故が現実に起こったこと。したがって当然のことながら「絶対」おこるはずのない事故に対処できるような安全装置もつけられてはおらず、ECCSも所期の機能を果たすはずもない。
(2)従来のECCSの安全解析には致命的な欠陥があること。ミニチュアサイズの模擬装置による実験と計算機だけをたよりに安全評価するという、不当な態度を安全委員会がとっていたわけで、これの誤りが事実で証明された。
(3)多重性による安全神話は崩壊したこと。
(4)フェイル・セーフ、フール・プルーフなどの機能を本質的に持ち得ない機器が、安全上重要な箇所に含まれていること。
(5)人為ミスは本質的になくせないこと

TMI事故のあとで発せられたこの論文の結論、そして追記で書かれた警告にもかかわらず、我々は、チェルノブイリ原発事故に続いて、22年後に、フクシマ原発事故という、さらに「起こりえないとされた事故」が「事実起きてしまった」現実に直面しているのである。
 
 

「米国版鉄腕アトム」の原発論議ービル・ゲイツ氏に苦言を呈す

私は1984年頃からWindows PC を使っているが、OSが進化するたびに、新しいソフトを買わせるマイクロソフトのやり口に辟易している。ワープロで言えば、WORD98というのを長く使用していたが、現在のOffice 2010 などよりも遙かに軽くて使い勝手が良かったと思う。つまり、OSが進化するたびにより高いスペックのPCを買わせ、さらにソフトをバージョンアップさせて収益増を図るという独占企業のやり口が次第に分かってきたのである。Windows というOSは、ひょっとしたら中身のコードはぐちゃぐちゃで、原発プラントの如く肥大化したために、あちこちにセキュリティ・ホールがある欠陥商品ではないかと思うことがある。何よりも困ったのは、プログラムにバグがあっても平気でそれを売り出す無神経さである。あとから勝手に、PCにアクセスしてきて更新ソフトをインストールすることを告げてくるのも迷惑至極である。それでもWindows PC を使い続けているユーザーは、独占企業の術中にはまって、ソフトを使わさせられているのであり、なんとなく、東電という独占企業によって原子力をいつの間にか使わさせられている我々の状況と似ていると思ってしまった。
そんなマイクロソフトの創業者ビル・ゲイツ氏は、なんと原発推進論者であった。ゲイツ氏によると、原子力の良いところは革新の欠如なのだそうである。ゲイツ氏は、どうやら40年前の原子炉を未だに使っている原子力業界にあきれ果てて、福島事故を契機にして安全な原子炉を開発するビジネスに魅力を感じているようである。ゲイツ氏によると、原子力は石炭の百万倍も効率の良いエネルギー源であり、二酸化炭素を排出しない利点があるとのこと。したがって科学技術を進歩させて、安全性の問題をクリアーして、原子力に関する否定的なイメージを変えるべきだというのである。そして、極めつけは、放射性廃棄物の量を1000倍も減らすような原子力プラントを開発することまで彼は提案している。
ダビンチの崇拝者であるゲイツ氏の頭の中は、どうやら1960年代の「鉄腕アトム」と「ウランちゃん」の時代の日本の科学者と同じように夢と希望に満ちているようである。科学技術の進歩によってあらゆる問題が解決するという技術信仰が彼のライフ・スタイルなのであろう。この挫折を知らぬ米国版鉄腕アトムの夢は限りがない。しかし、私は敢えてゲイツ氏に苦言を呈したい。チェルノブイリやフクシマの致命的な事故が起きる以前にロシアや日本の原発推進派からさんざん聴かせられた夢物語はもうこりごりである。子供じみた夢想を語る頭を切換えて貰わねば、アトム君を制御すべきコンピューターがバグで暴走して、とんでもない社会的な危害を及ぼしかねない、と。

池田信夫氏の原発論議の「科学性」について

池田信夫という経済学者が、御自身のブログで「浜岡原発の「停止要請」は非科学的だ」という意見を述べている。私は池田氏とは全く面識がないし、ブログで公開されている以上の氏の経歴を存じ上げないが、氏の所説は、現在焦眉の問題にかかわるものであり、その議論の科学性を検討することは社会的に意味があると思うので、敢えて、ここで取り上げさせて戴く。
まずは、池田氏の所説を聴こう。氏は、菅直人総理の浜松原発の停止要請を批判して次のように述べている。

浜岡が危険だといわれたのは、東海地震震源の真上にあって、原子炉が地震で破壊される(あるいは制御できなくなって暴走する)のではないかということだったが、これについては東海地震で想定されているよりはるかに大きな今回の地震で、福島第一の原子炉は無事に止まった。浜岡も国の安全審査では、東海地震に耐えられる。
福島第一事故は、最悪の条件で何が起こるかについての「実験」だった。何も知らない外国政府が漠然と「原発は危ない」と考えて運転を止めるのはしょうがないが、日本政府は因果関係を詳細に知ることができるのだから、事故の原因は予備電源を浸水しやすいタービン建屋の中に置いたという単純な設計ミスだったことがわかるはずだ。福島第一の場合も原子炉建屋の屋上に移設しておけば、福島第二と同じように冷温停止になったはずだ(工費は数百万円だろう)。
事故原因は特定されているのだから、それを無視してなんとなく「津波対策をするまで危ない」と考えるのは論理的に間違っている。中部電力は法的根拠のない「要請」を拒否し、保安院の説明を求めるべきだ。

原発震災を引き起こした第一原発の二つの爆発事故によるレベル7の甚大なる放射能汚染を「実験」という池田氏の神経には驚いた。事故をシミュレートすることはできるが実験することは出来ない。「事故」と「実験」を混同したのでは、この論説そのものの「科学性」が疑われるであろう。
次に、「福島第一の原子炉は無事にとまった」から「浜岡の原子炉も無事にとまるだろう」と推論することは科学的な論拠に基づいているだろうか。
池田氏は、沸騰水型の制御棒は、重力に逆らって下から上へ向かって挿入されるという(科学的な)事実をご存じであろうか。相当な重量のある制御棒を燃料集合体の細い隙間に差し込む際に、大きな余震に見舞われるならば、制御に失敗する可能性は常に存在するのである。また、そもそも電源が喪失した時期が早ければ、制御棒自体動かすことが出来なくなるのである。福島の原発震災のときに関係者が最も気遣ったのは、制御棒がきちんと入ったかどうかということであり、それが挿入されたのは「不幸中の幸い」とも言うべきことだったのである。地震多発地帯に原発を設置しないこと、活断層のあるところは避けるというのが日本を除く世界の安全基準であるが、それは地震によって原子炉が制御不可能となる事態を恐れているからである。
次に、浜岡原発は、地震に対して安全ではないというのは、地震学者が警告していたことであり、保安院がそれを無視してこの原発の稼働を許したことが正しかったかどうかが現在問われているのである。国が認めたから安全だというのでは、国は絶対に間違いを犯さないという「原発神話」を池田氏が受け入れていることを示すに過ぎないのである。23年以上運転を続けた原子炉は故障が多発することは、神話ならざる統計的事実の示すところである。また老朽化した原子炉が安全であることを検証する実験設備は現在何処にもない。
 「事故」は「実験」と異なり、「想定外のことがかならず起こる」ものである。したがって、嘗て想定していなかったことを、後智慧のようなかたちであとから想定し、便宜的な弥縫策を講じたとしても、今後、さらに「想定外の事故」が起きないという保証はどこにもない。
実際、使用済み燃料プールの水位が下がり加熱によってジルコニウムが溶け、水素爆発を引き起こすという可能性は、原子力関係の技術者の想定していなかった事態であった。想定していれば連続して水素爆発が起こるという事故はなかったであろう。しかも、三号機の巨大な閃光とキノコ雲を伴った爆発事故については、ガンダーソン氏ら海外の専門家によって、ただの水素爆発ではありえず、使用済み燃料プールが地震で水漏れし、むき出しの使用済み燃料棒が水素爆発によって即発臨界をおこした可能性が指摘されている。従来は原子炉が無事ならば大事故にはならないということが暗黙の内に前提されていた。しかし、もしガンダーソン氏の考えが正しかったと科学的に立証されるならば、原子炉の安全基準だけでは不十分であって、使用済み核燃料の保管方法にかんして全面的な見直しを迫られるだろう。貧弱な耐震性を持ったプールに保管されただけの使用済み核燃料は、福島原発だけで3000程にもなるが、それらのもつ潜在的な危険は計り知れないものである。

私はさらに池田信夫氏の「原発事故という「ブラックスワン」という論説をもここで引用し、氏の所説がいかに非科学的な論拠に基づいているかを言っておきたい。池田氏は、次のように言う。

今回の事故は、1000年に一度の最悪の条件でもレベル7の事故は起こらないことを証明したわけです。誤解を恐れずに言えば、国と東電の主張が正しく、軽水炉(三号機はプルサーマル)が安全であることが証明されたと言って良い。しかし、こういう論理は政治的には受け入れられないでしょう。今後、日本で原発を建設することは不可能になったと考えるしかない。これは日本経済にとって深刻な問題です。

ここでも池田氏は、福島の原発事故がレベル7ではないという東電や保安院の虚偽の説明を鵜呑みにして意見を述べている点で、自らの所説が、非科学的な論拠に立脚していたことに気づいていないようである。この論説は、あきらかに保安院がレベル7であることを認めた時点よりも前に書かれたものであるが、今のところ著者自身による釈明も自己批判もないようである。(氏が堂々と自分の見通しが甘かったことを認めることを希望する)そして、今でも、今回の福島の「実験」で、「国と東電の主張が正しく、軽水炉(三号機はプルサーマル)が安全であることが証明された」という(科学的?)所説を展開されるのかどうか、お聞きしたいものである。

佐藤栄佐久前福島県知事のインタビューについて

4月18日の外国特派員協会で、佐藤栄佐久福島県知事の記者会見の模様が、 ビデオニュース・ドットコムに収録されていた。特派員は原子力安全・保安院の記者会見には誰一人出席しなくなったとのことであるが、佐藤栄佐久氏の記者会見は多数の出席者がいた。ビデオニュースで見る限り、佐藤氏の話は正論であり、なぜ外国の特派員が彼を呼んだのか、理由がよく分かった。国の原発推進政策の中に含まれていた問題点を実に的確に指摘していたからである。尚、佐藤栄佐久氏には「知事抹殺」という著書があり記者会見の中でも紹介されていた。

知事抹殺 つくられた福島県汚職事件

知事抹殺 つくられた福島県汚職事件

この本は原発震災の前に出版されたものであるが、フロッピーディスク改竄で有罪となった例の検事も登場する強引な取り調べ、国策に抵抗した知事を冤罪で抹殺したこと、福島県知事を原発支持派に交替させた裏事情、プルサーマル計画を推進した時の審議の簡略さ、東電のデータ偽造不正事件、過去の電源喪失事故から全く学んでいない東電と原子力安全・保安院の審査の杜撰さなどが赤裸々に記録されている。この本は、現在に於てこそ読む価値が増したというべきであろう。

核施設と非常事態−地震対策の検証を中心に−故高木仁三郎氏の論文(1995年)を読む

核施設と非常事態−地震対策の検証を中心に−という故高木仁三郎氏の論文を読んだ。阪神大震災を踏まえて防災対策の見直しが行われていた時期に、なぜか原発震災の可能性についての議論が殆ど為されていないことを憂えた高木氏が、1995年に日本物理学会誌に寄稿した論文である。 僅か四頁の長さであるが、今日の福島原発震災を予見する洞察力に満ちた論文であり、今回起きた「想定外」の事故のすべてを、16年前に十分に起こりうるものであるとして、その科学的根拠を述べて警鐘を鳴らした論文である。
 高木氏は、まず、原発の現行の耐震設計審査基準では「原発は本当に大地震に耐えられるかという疑問を強めざるを得ない」と警告する。
たとえば、阪神大震災の場合、大阪ガス(神戸中央区)で実測された地震の加速度は833ガルであったが、福島第一原発の一号機から六号機で想定している地震動は、設計用最強地震の加速度が176ガル、設計用限界地震(起こるとは考えられないが万が一のために想定する地震強度)が265ガルで、阪神大震災で実測された地震の強さの1/3以下にすぎない。つまり、つまり阪神大震災の時点で、想定の限界を三倍程越えた地震動が実測されたのである。
それでは、現在問題となっている浜岡原発はどうかといえば、一号機と二号機は、想定最強地震の強度が300ガル、限界地震強度は450ガル、三号機と四号機で、最強地震強度が450ガル、限界地震強度が600ガルである。ここにおいても、福島第一原発よりは耐震性が高いとは言え、阪神大震災程度の直下型地震が起きれば,想定された限界地震強度を超えていることは明らかである。
 次に、活断層の有無について高木氏は注意を喚起する。国がこれまで、活断層がないとして原発を設置した地域は、実は、地震学の未発達によって活断層がまだ知られていなかった地域と言う方が妥当なのである。たとえば敦賀原発の敷地内を通る浦底断層は、1994年に東京大学で出版された『新編 日本の活断層』によれば、確実度1の活断層である。
 当時の原発設計指針の場合、マグニチュード6.5の直下型地震を「万が一の場合に備えて」想定はしていた。しかし、この6.5という数値の科学的根拠は示されていない。阪神大震災の震度はマグニチュード7.2であった。
 更に、原発の老朽化と地震災害の問題に高木氏は議論を進める。運転歴による原発の事故・故障発生率の相関を示すグラフは、運転歴が23年を過ぎると、事故の発生率が急上昇することを示している。その事故には、福島第二原発の三号炉の再循環ポンプの大破損(1989年1月)や、美浜2号炉の蒸気発生器伝道管破断(1991年2月)のような大型の事故や、原子炉容器本体や炉心構造に関連した大型の損傷(たとえば福島第一原発二号炉の炉心シュラウドの大きな亀裂など)もみられる。老朽化の問題点は、第一に、小さな事故・故障が重なり合って大きな事故に発展する機会が大きくなること、第二に、定期検査で発見されないような部分の損傷や亀裂、劣化が生じることである。現行では、設計時の耐震テストは為されているが、老朽化した装置が地震に対してどれだけの耐性をもつかというテストは全く為されていない。そして、高木氏は、「共通要因故障」という疑念によって、今日の福島原発震災を予見した次の警告を発している。すなわち、「老朽化原発が大きな地震に襲われると、いわゆる共通要因故障(一つの要因で多くの危機が共倒れする事故)に発展し、冷却剤喪失事故などに発展していく可能性は十分ある」と指摘している。高木氏は、さらに、原発の非常時対策がなっていないことを指摘しているが、その箇所には、今回の原発震災を予見する部分が含まれているので、以下に、原文の儘引用する。

国や電力事業者は「原発地震では壊れない」ことを前提にしてしまっているために、そこから先に一歩も進まず、地震時の緊急対策を考えようとしない。たとえば、静岡県による東海大地震の被害想定に、浜岡原発が事故を起こすことは想定されていない。逆に、浜岡原発の防災対策では、地震で各種の動きや体制がとれなくなるようなことは一切前提されていない。ただでさえ、地震時の防災対策の、原発事故時の防災対策にも不備が指摘されているから、これらが重なったら対応は不可能になるだろう。仮に、原子炉容器や一次冷却剤の主配管を直撃するような破損が生じなくても、給水配管の破断と緊急炉心冷却系の破壊、非常用ディーゼル発電機の起動失敗と言った故障が重なれば、メルトダウンから大量の放射能放出にいたるだろう。・・・さらに原発サイトには使用済み核燃料も貯蔵され、また他の核施設も含め、日本では少数地点への集中立地が目立つ(福島県浜通り福井県若狭、新潟県柏崎、青森県六ヶ所村)が、このような集中立地点を大きな地震が直撃した場合など、どう対処したらよいのか、想像を絶するところがある。しかし、勿論、「想像を絶する」などと言ってはいられず、ここから先をこれから徹底して議論し、非常時対策を考えていくべきであろう。

経済産業省の内部文書と菅直人首相の決断

原子力発電によるエネルギーの「安定供給」を国策としてきた経済産業省の役人どもが次のような内部文書を用意していたことが東京新聞に掲載されていた。http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011050601000829.html 
それによると「原発の緊急安全対策を進めて「安全宣言」を早期に行うことで既設の原発からの電力供給を確保し、2030〜50年には「世界最高レベルの安全性に支えられた原子力」を3本柱の一つとする」というのが日本の今後のエネルギー政策だとのことである。この文書の日付は、何と今年の5月6日である! つまり、これを書いた役人の頭のなかには、福島原発事故がいかに国民の安全と生命を脅かしたかという視点は全く存在しないのである。

これに対して、市民運動から政治活動を始めた菅直人首相が、その初心に立ち返り官僚と対決を辞さぬ決意を示したことは評価されねばならない。本日七時に菅首相浜岡原発のすべての原子炉の運転停止を中部電力に要請した。これは英断と言って良い。しかし、官僚、中部電力、マスメディアを通じてこれまで形成されてきた「原発ロビー」は容易なことでは「国策民営原発」の既定路線を変更しないであろう。防潮堤が完成時には原発再開という約束をさせられて脱原発が骨抜きになる可能性もある。国民の生命と安全を第一とするこの決断を、脱原発への長い道のりの一歩として位置づけなければならない。