三号機の爆発事故はただの水素爆発だけではなく、即発臨界による核爆発を誘発した可能性が高い

重大な映像と米国の原子力の専門家による解説がYouTube を通じて日本でも見られるようになった。タイトルは日本人にとっては衝撃的であるが、「福島第一原発三号機の爆発事故は、ただの水素爆発だけでなく核爆発でもある可能性が高い」という内容である。

説明を聞く限り、なるほどと頷けるものであった。我々は三号機の爆発事故は水素爆発であると聞かされてきたが、一号機の爆発時の映像と三号機のそれを比較してみると、衝撃波の伝わる速さが、音速(一号機)と音速以上(三号機)という重大な違いがあり、三号機の場合は遙かに激しい爆発であったことが一目瞭然である。爆発時の高温のため建て屋の鉄骨が曲がったことは、唯の水素爆発によるものとは考えにくいと言うことだけならば、それを指摘した専門家は当時の日本にもいた。しかし、核燃料棒の破片が遠くまで飛び散ったという事実は、私には初耳であった。このことは政府や東電はいまだ国内に向けては発表していないのではないか。格納容器や圧力容器は破壊されていないということから、三号機の爆発は、原子炉の中での核爆発ではないという事を我々は聞かされてきたが、実は重大な盲点があったようである。ガンダーソンによれば、空になった使用済み燃料プールのうえに水素ガスがたまり、まず水素爆発が起き、次にその影響で圧力をかけられた使用済み核燃料が変形し、即発臨界によって爆発した可能性が高いというのである。(爆発音は三回聞こえた)
核爆発と言っても、それは小規模の「即発臨界」によるものであったから、原子爆弾のような激烈な連鎖反応ではなかったにしても、建屋を激しく上方に吹き飛ばし、周辺にウランやプルトニウムの破片をまき散らしたことは確かである。これによって三号機周辺の瓦礫の放射能が異常に高いことも説明がつく。福島原発の三号機の爆発が、ただの水素爆発ではなく、即発臨界による小規模の核爆発であったというのは、どうやら受け入れなければならぬ事実であるようだ。

三号機爆発事故の後の日本政府の狼狽した対応、米国がただちに80キロメートル以遠への避難指示を出したこと、米国やフランスが内政干渉をも辞さぬ強い態度で、自国の原子力の専門家を官邸にいれることを主張したことなどをあわせて考えると、東電や日本政府がこの事実を伏せ、マスコミも三号機の爆発の映像をすぐに放映することを差し止めたのではないか。欧米では、このような理解がむしろ一般的になりつつあるのであるから、いつまでも隠し通せるわけではあるまい。現地の調査を行わねばならぬ日本の原子力の専門家による徹底的な検証を望みたい。

補足

小出裕章氏は、この問題については慎重な意見を述べられていたが、それでもこの件を考慮すべき必要性について、
http://hiroakikoide.wordpress.com/2011/05/04/tanemaki-may4/
で言及されていた。それによると、包括的核実験禁止条約に基づいて高崎に設置された観測所で、3月15日から16日にかけて(この日は東京でも異常に高い放射能が検出された)、ヨウ素135が大量に検出されたとのこと。この観測結果に間違いがなければ、異常な観測データは、三号機の水素爆発に伴う「核暴走」が使用済み燃料プールで起きたことを想定すれば説明がつくとのことであった。

福島第一原発三号機の爆発が、使用済み燃料プールで生じた核爆発であったというガンダーソン氏の説明を引用したが、この爆発事故に起因する核分裂生成物の影響を示す観測データが、日本分析センターと高崎の放射性核種探知観測所にあがっている。

http://www.jcac.or.jp/lib/senryo_lib/nodo.pdf
によると、

3 月7 日から3 月14 日まで採取した大気の分析結果
クリプトン85 1.44 Bq/m3
キセノン133 0.056 Bq/m3
3 月14 日から3 月22 日まで採取した大気の分析結果
クリプトン85 17.7 Bq/m3
キセノン133 1,300 Bq/m3
3 月22 日から3 月28 日まで採取した大気の分析結果
クリプトン85 1.97 Bq/m3
キセノン133 25.2 Bq/m3

つまり3月15日の三号機爆発事故以降、キセノン133の観測値が異常に高くなっているのが分かる。
また、http://www.cpdnp.jp/pdf/110330_Takasaki_report_Mar27.pdf によると

高崎観測所において15日以降に捕集された大気の測定値の解析結果については、福島原発から飛来したこれら粒子状放射性核種の種類については、上記1.の放射性核種に加えて、
亜鉛(Zn)-65,バリウム(Ba)-140,ヨウ素(I)-135,ニオブ(Nb)-95、等が新たに検知されている。これら放射性核種の放射能濃度は、
15日〜16日の測定値をピーク及び20日〜21日を第二番目のピークとし1、それ以外はより低い値で推移していることが示されている。

補足2(2011年5月9日)
リンクしていたYoutubeのビデオが削除されていました。これは日本語の字幕がついているので視聴者にとって分かりやすかっただけに残念です。なぜ削除されたのか分かりませんが、なんらかの圧力がかかって、自主規制がおこなわれたのでしょうか。そこで、英語版の方をあらためてアップします。


原子力の平和利用は、そもそも可能であったか?−アイゼンハワーの国連総会に於ける演説、Atoms for Peace 再考 

原子力の平和利用は、アイゼンハワー大統領の国連総会での演説、Atoms for Peace に始まるというのが通説になっている。



たしかに、ソビエト連邦核武装し、核兵器の開発競争によって人類が、はじめて自己自身を絶滅させる可能性に直面した事実の重さが、この演説の背景にあった。この演説によって、第二次世界大戦戦勝国、とくに英米仏を中心として、原子力の平和利用を目指す国際原子力機関IAEAが1957年に設立された。IAEA福島原発以降一般の日本人にもおなじみとなったが、元来は、核の軍事利用を制限し、核査察を行うことを使命としている国際組織である。
日本では、中曽根康弘が音頭をとって原子力三法を成立させ、原子力を未来のエネルギーとして、資源を持たぬ日本の国策として原子力発電所の建設を推進させることとなったが、それもこの演説をきっかけとしてのことであった。
「平和のための原子力」という観念は、当時は多くの人を引きつけ、国立大学には原子力工学科が新設され、多くの優秀な学生が原子力を専攻したものであった。
しかしながら、現代に於いて焦眉の問は、そもそも原子力の「平和利用」なるものが可能であったのか、ということである。それは未来のエネルギー資源を確保するなどと言う楽観的な科学万能主義では片付かない深刻な問題を提起している。そもそも原子力エネルギーの「平和利用」はありえず、「平時利用」が原発で「戦時利用」が原爆ではないか、という疑念を払拭することがどうしても出来ないのである。原発は原爆と密接に結びついていたのであり、平和のために開発されたわけではない。そして、原子力の平和利用の筆頭に掲げられた原子力発電所が、それが建設された場所に住む住民からみれば、いつ核汚染に晒されるかも分からぬという意味で、「平和」の対極に位置している。

原発は平和のための道具ではなく、戦争のための道具であり、平時に於いては住民の「不安」の源であることを明記すべきであろう。原発推進派、あるいは原発維持派は次の諸点を考慮して貰いたいものだ。

①原子炉は長崎原爆を開発するために製造されたのが始まりであり、一国が原子力プラントを有つということは、その国に原爆を製造する技術が完成していることを意味している。北朝鮮の核査察が大問題となったが、事の発端は、北朝鮮が原子炉を使って少量のプルトニウムを製造したことであった。イスラエル中東戦争の時に、アラブ側の製造中の原子炉を破壊したことも記憶に新しい。

② 原子炉は高レベルの放射性廃物を大量に産み出すが、その処分に関する有効な方策もなければ、処分場の場所も確保されているとは言いがたい。とくにプルトニウムのように半減期の長大なものを大量に産み出す原発の廃物処分は、我々の子孫に巨大な負の遺産を残す。

③ ウランの資源は有限であり、エネルギー換算しても、石炭や石油には遙かに及ばない希少資源である。ウラン238をプルトニウムに核変換して再利用する核燃料リサイクルの計画、とくに高速増殖炉の建設は現在では日本だけが膨大な経費をかけて研究したものの、ナトリウムを冷却剤として使うことに伴う技術上の難問が解決せず、挫折してしまった。MOX燃料によるリサイクルは経済的には外貨の無駄遣いであり、ウラン燃料の枯渇を僅かに先延ばしにするに過ぎぬ程度のリサイクルに過ぎない。そして、廃物として処理すべきプルトニウムの危険性は言うまでもない。

④ 原発のコストは、安全基準の高まりに伴う建設費の高騰、廃炉にかかる期間の長大さ、事故時の補償の天文学的な数字を考慮すれば、とんでもない高額なものとなり,経済的に採算がとれなくなる。

⑤ 原発炭酸ガスを出さぬが故に、環境問題に寄与するという説は、たちの悪い神話である。放射性廃棄物の危険性は、温暖化ガスの排出などとは比較にならぬ。また,原発による発電には、ウランの採掘、精錬、濃縮、使用済み燃料の再処理などに膨大な化石エネルギーを使うのであるから、その過程で温室効果ガスを排出する。また発電時に於てさえ、一級河川の流量に匹敵する温排水を大量に海に流すわけであり、海の生態系をみだすと同時に、海水を暖めることによって直接に、そして海から二酸化炭素を放出させることによって間接的に、地球の温暖化に寄与しているのである。

このように、経済的にも割が合わず、我々の子孫に負の遺産のみを残す原発をなぜ廃止しないのであろうか。そこには、「核という幻想」への執着がある。1960年代に動き始めた「国策」の罠にはまった日本人の共同幻想にほかならぬ原発神話からの一刻も早い離脱を求める所以である。

脱原発の道のりは長いが、我々は福島原発の事故の終息にむけての技術的解決を段階的に実施するのと同じように、脱原発の原則を明確にしたうえで、原子力エネルギーに関する国策を転換すべきである。転換に失敗すれば、そのつけは原発建設を許容した我々だけでなく、子々孫々の生命を損なう環境汚染を引き起こすであろう。そして、脱原発は日本だけでなく、世界全体に及ぼさねばならない、特に、先進国は、開発途上国原発プラントのようなものを輸出することをやめなければならない。それは核拡散を容認することであり、非核三原則をかかげる日本の外交の基本に矛盾する行為である。もっともこの原則を掲げながら、米国の「核の傘」にはいってきたのが戦後の日本であったが、今後は、開発途上国原発を売り込もうとしているフランスなどの「先進国=環境後退国」の「原発の傘=下請け国」に入ることによって日本の原子力産業は延命をはかるかもしれない。そのようなエコノミック・アニマルになることは、広島と長崎の、そしてチェルノブイリと福島の被爆者に対する最低の裏切り行為である。

孫正義氏の提言

孫正義氏が津波による被災者救済のために私財100億円を投じられたというニュースは知っていたが、Twitter でインターネットの言論の自由を守るために熱く語っておられるのを見、また動画サイトを通じて直接に人々に語る姿を見て、私は従来の財界人には見られない新しい起業家の姿に引きつけられた。
ラフな姿で、原子炉の技術者からレクチャを受けている孫氏は、ビルゲイツ氏と同じように、どこからみても億万長者なぞには見えない。3/11以後の日本が脱原発を政策の基本に据えるべきことを、起業家として、また経営者として提言している。自然な再生可能エネルギーこそが代替案である。それは我々の次の世代に、危険に満ちた原発とその廃棄物を押しつけてはならないという人間としての自然な感情から発するものである。孫氏は、民主党の議員を相手とする講演会では、合理性を重んじる起業家の見地から見ても、脱原発によって環境問題を解決する道が、推奨さるべき道であるという議論を熱く語っていた。それは、天災と人災でうちひしがれながらも、創造性と活気を失わずに平和を目指すべき、これからの日本の将来を照らす説得力のある議論であった。そして、復興のための義援金に更に追加して、太陽エネルギーを活用するための財団を設立するという具体的な行動を起こしている。率直に自分の所信を語る仕方、謙虚さと共に創意に満ちた提言が印象的であった。このような起業家こそ今の日本に必要なのではないだろうか。

アジア・太平洋ジャーナルに掲載されたアージュン・マキャニ博士の再臨界に関する論説

What Caused the High Cl-38 Radioactivity in the Fukushima Daiichi Reactor #1?
という記事では、昨日引用した小出裕章氏とおなじく、東電の公開したデータが正しければ、福島第一原発で「再臨界」が生じている可能性が高いことに言及している。

The presence of highly radioactive water in three turbine buildings at the Fukushima Daiichi nuclear plant is widely understood to be from the damaged fuel rods in the reactors. This has rightly raised concerns because it indicates several problems including extensive fuel damage and leaks in the piping system. Less attention has been paid to the presence of a very short-lived radionuclide, chlorine-38, in the water in the turbine building of Unit 1. The following paper evaluates whether its presence provides evidence of a serious problem – one or more unintended chain reactions (technically: unintended criticalities) – in the reactor. Such chain reactions create bursts of fission products and energy, both of which could cause further damage and aggravate working conditions that are already very difficult.
Chlorine-38, which has a half-life of only 37 minutes, is created when stable chlorine-37, which is about one-fourth of the chlorine in salt, absorbs a neutron. Since seawater has been used to cool, there is now a large amount of salt – thousands of kilograms – in all three reactors. Now, if a reactor is truly shut down, there is only one significant source of neutrons, namely, the spontaneous fission of some heavy metals which are created when the reactor is working and remain present in the reactor fuel. The most important ones are two isotopes of plutonium and two of curium. But if accidental chain reactions are occurring, it means that the efforts to completely shut down the reactor by mixing boron with the seawater have not completely succeeded. Periodic criticalities, or even a single accidental one, would mean that highly radioactive fission and activation products are being (or have been) created at least in Unit 1 since it was shut down. It would also mean that one or more intense bursts of neutrons, which cause heavy radiation damage to people, have occurred and possibly could occur again, unless the mechanism is understood and measures taken to prevent it. Measures would also need to be taken to protect workers and to measure potential neutron and gamma radiation exposure.
This paper examines whether spontaneous fission alone could be responsible for the chlorine-38 found in the water of the turbine building of Unit 1. If that could be the only explanation, there would be less to be concerned about. However, the analysis indicates that it is quite unlikely that spontaneous fission is the sole or even the main explanation for the measured concentration of chlorine-38. Presuming the reported measurements are correct, this leaves only one other explanation – one or more unintended chain reactions. This paper is presented in the spirit of encouraging discussion of whether further safety measures might be needed, and whether supplementary measures to bring the reactors under control should be considered. It is also presented as a preliminary analysis for scientific discussion of a terrible and technically challenging nuclear crisis at the Fukushima Daiichi plant.
Arjun Makhijani March 30, 2011

この論説の著者も小出氏と同じく、東電が公開した資料だけに基づいて「再臨界」の可能性を考慮すべき理由を挙げている。この論説も又、我々が読んで然るべきものであり、最悪の事態を考慮せずに、危険性に直面している現実から目をそむけて眠り込んでしまってはなるまい。東電が公開した資料は、当然、一部の資料だけであろうが、それだけにもとづいても、東電や保安院、安全委員会の説明では言及されていなかった深刻な事態を予告するものとして解読できるのである。保安院の発表は、パニックを恐れるあまり、本当のことを率直に言わないということは、レベル7の事態であったことを一ヶ月後にようやく発表したこと、原子炉建屋の爆発時点での深刻な状況を正確に伝えなかったことなどに明瞭に現れている。
小出氏やアージュン・マキャニ氏の論説およびそれを紹介したジャーナルが信頼できるのは、政府や当事者が言いたくない困難な事実があることを、あえてあるがままに公開し、それにもとづいて適切な対応を呼びかける科学者の良心を尊重しているからである。厳しい状況を直視しつつも、恐怖を煽るのではなく平常心を忘れぬ人間的な勇気を私はそこに見出した。

小出裕章氏から学ぶー最悪の事態を予見して最善を尽くすべきこと

小出裕章氏のインタビューを聴いた。現在起こっている事態が如何に深刻なものであるか、とくに再臨界が既に起きていると考えるべき重大な兆候が検出されているという指摘は重要であり、「再臨界」という事態が何を意味するか、何を証拠に再臨界が起きていると推測できるのか、その説明は明快であって、納得のいくものであった。ピットの汚染水の放射線量が急激に増加したことなど様々の現象が、再臨界が生じていると仮定すれば説明可能となるのである。再臨界が生じていると言っても、おそらく局所的なものであり、それによってただちに爆発が起きるわけではないが、核燃料のペレットが溶けて、炉心溶融が起こり、その結果、水蒸気爆発によって圧力容器が破壊される可能性が、再臨界によってたかまるのであり、その最悪の事態を何としても避けねばならぬということであった。各原子炉の内部に閉じ込められてあった放射性物質の総量から言って、水蒸気爆発によってまき散らされる放射性物質の数量はチェルノブイリの数倍にも及ぶということが現実的な可能性としてあることを、あらためて認識した。
こういう率直な指摘は、今のマスコミの報道で接することはまれである。小出氏の応答の中に私は、マスコミに登場する有名大学の教授達とは異なる、真実を直視する科学者の良心とも言うべきものを見た思いがした。我々が如何に困難な状況にあり、東電の現場で命がけで作業している人達がどれほどの難題を背負っているかがよく分かった。語られている内容は深刻であったが、政治的な派手なパフォーマンスなどとは無縁な一人の科学者の良心の発露に接し、私は全くの絶望ではなく、一縷の希望を与えられた。

黒澤明の「黙示録」:赤富士・鬼哭・水車小屋のある村 

黒澤明の「夢」という作品を観たのは20年くらい前だったろうか。この作品の中の終わりの三つの「夢」、「赤富士」、「鬼哭」、「水車小屋のある村」は、預言者的精神に満ちた傑作である。それは、芸術家の想像力の世界の中で、二〇年後の日本を予言した驚くべき作品である。この映画は3月12日にケーブルテレビ(日本映画チャンネル)で配信される予定であったが、聞くところによれば、6基の原子力発電所が暴走・爆発し、人々が逃げ惑うシーンが含まれていたために急遽、放映中止になったそうである。

芸術作品を現実と混同する愚かさは避けねばならぬが、この映画は実に、洞察と予見に満ちた作品である。
まず、暴走する原子力の火によって赤く変色した富士が、現在の日本の於かれた状況を(芸術家の想像力の世界の中で二〇年前に)見事に予見している。
そして、6機の原発が次から次へと暴走・爆発して、逃げ場を失った群衆が叫ぶ台詞。「狭い日本にいる私たちは一体何処に逃げられるというの?」
そして、「原発が絶対に安全だと言っていた連中の首を絞めてやりたい」と怒る母親にたいして、「放射能が代わりにやってくれるさ」と答える科学者のアイロニー
前のブログで私は「黙示録的状況」という言葉を使ったが、実に黒澤明は二〇年前に「日本の黙示録」を映画で表現していたのである。
この映画は、原発放射能によって自然環境が崩壊した後の状況を「鬼哭」で表現しているが、そこには水俣病などの公害によって苦しむ人々のイメージも投影されているようだ。
しかし、この映画の最終場面で、黒沢は未来への夢をも描いている。「水車のある村」は、彼が未来に投げかけたユートピアであろう。そこでは電機を使わない村が描かれ、自然と共生する人々の牧歌的な姿が描かれている。

原子力に象徴される巨大プラント、「エネルギー革命」の時代の破局と終焉を黙示録によって伝える映画ではあるが、その破局の後に垣間見た「自然と人々の共生」というビジョンを映画という媒体を通じて表現した映画が黒沢の「夢」である。赤富士と鬼哭の悪夢から醒めて、「水車小屋のある村」を正夢とするような環境/生命の文明に向かうべきであろう。

終末的・黙示録的状況を直視して平常底を生きること

福島原発の事故を報道する欧米の新聞やテレビの報道の中でしばしば Apocalypse (黙示録)と言う言葉が使われている。
たとえば Ghost Island: Apocalyptic scenes in tsunami worst-hit Japan areas と題する以下の映像を見てみよう。

ユダヤ・キリスト・イスラム教の影響を受けた「聖書の民」からすれば、このような情景は、世界の終末・審判の時を連想するものである。津波によって乗用車がビルの上に乗り上げたり、燃えさかる家が流されていく情景、そして津波が襲った後の廃墟の有様などは、まことに世の終わりという感じを人に与えるものなのだろう。
また、福島第一原発の一号機が水素爆発をおこした情景が放映されたときも、地震津波、につづく破局として、「黙示録」という言葉が盛んに使われていた。3号機がおなじように水素爆発したときに、東電社員が一時的に待避したとき、一部の報道機関は「東電が原発を見捨てた」と書いたが、その水素爆発によって建屋が吹き飛んだ情景は、まさに世の終わりを連想させるものであったろう。誤報であったとは言え、50人を残して作業員が引き揚げたという事実は、日本よりも外国の方でより深刻に受け止められたことはいうまでもなかろう。実際、第一原発の近くでまだ避難せずにいた住民tちはその凄まじい爆発音を聞いたときには、文字通り世の終わりが来たと実感したであろう。 

これに対して、原子力開発を専門とする科学者たちは、宗教的な受け止め方とは違って、福島原発は「黙示録」ではないと強調している。
たとえば、Bulletin of the atomic scientists(3月30日)に寄稿した、Ramamurti Rajaraman 氏は、福島は産業的な破局ではあるが、核の「黙示録」ではないと言っている。

その理由として氏は
(1)3月11日の地震津波の直撃のほうが、その後に続いた放射能漏れよりも遙かに致命的である。
(2)福島第一原発の危機はパニックを引き起こすような原因ではなく、全世界の原発の安全性を向上させる機会である。
(3)核災害は、いくつかの積極的な結果をもたらすものであり、それには現在稼働中の原発の新たなる点検と未来の原発の改善などがふくまれる。

私はこのブログの前の記事で、脱原発の立場を明瞭にしたが、上に引用したRamamurti Rajaraman氏のような意見を持つ科学者は多いのではないかと思っている。彼らは、科学技術そのものの有つ危険性ということを無視している。福島原発のように同じ場所に6機の原子炉と3000本の使用済み核燃料のあるところで同時に複数の原子炉で炉心溶融が進行すれば、それこそ地震津波とは比較にならぬ「黙示録的状況」が出現するであろう。科学技術は人間が永遠に生き残るということを前提にしているようだ。ちょうど、すべての電源が喪失する状況をリアルな可能性としてまともに問題にしていなかったのと同じように、原発プラントが炉心溶融をおこして、暴発し、死の灰をまき散らすという現実的な可能性を考慮していないのである。ここに科学的・技術的な知そのものの限界がある。

私は現代は文明の転換期であると言った。この文明は完全に亡びるかも知れないーそういう認識が必要であろう。そのような終末論的な意識・黙示録的な自覚を促すものとして、今回の自然災害と原子力災害を受け止めるべきだと思う。

我々に必要な知は、科学技術の知ではなく、人知の限界と世の終わりが恒に我々の現在に差し迫っているという終末論的な知である。
その終末の時代を直視しつつ平常底を生きること、終末をつねに先取りしつつ平常心をもって現在を生きることによって、はじめて我々の文明の未来を語ることが出来るのではないか。