映画「白蘭の歌」について

 この映画は戦後、ビデオ化されているが、編集ないしカットされたシーンが大分あるらしく、話の運びに分かりづらい箇所がある。この映画が大ヒットした当時の日本人のものの考え方を知る上で貴重な資料であるから、前編・後編と分かれた完全版を、戦前に上映されたのと同じ形でDVDなどに収録してもらいたいものである。
 この映画、満映李香蘭以外の俳優も多数出演しているが、中国語には日本語の字幕がつく。そのかわりに日本語には中国語の字幕はつかない。中国語の字幕のつく満州バージョンがあったのかどうかは、僕は寡聞にしてしらないが、仮に満州バージョンがあったとしても、満州に住む中国人に受けたとは思えない。
 満鉄の企画会議などのシーンでは、満州経営に当たった日本人は意志堅固な善玉であり、いずれも使命感にあふれ、お国のために身命を惜しまず献身する男として描かれている。満鉄の事業を妨害する抗日ゲリラは、卑劣な悪玉、「匪賊」として描かれている。満鉄の技師、松村康吉(長谷川一夫)は日本男児の鏡として描かれ、自分の家を建て直すために、満鉄をやめて、その退職金で借金を支払い、その後は満州の開拓民の一人となる。ということは、満州への移民を促進・奨励する国策映画というのが全体の枠組みである。実際、開拓村での彼の献身ぶりも描かれている。開拓村の農民たちが「日の丸」を掲げて宮城のある遙か東方にむかって早朝礼拝する情景が印象的である。彼らは満州に骨を埋めるつもりで移民したが、その心のよりどころは祖国日本の発展なのであり、「天皇」と「神社」こそが開拓村の象徴なのである。
 こういう国策映画の枠組みの中で、東寶の監督渡辺邦男長谷川一夫李香蘭ラブロマンスを挿入する。これこそが「大陸三部作」の目玉であったのだろうが、現在我々が見るビデオでは、この二つのテーマはうまく融合しているようには見えない。開拓農民の労苦を描く場面と、主人公の二人の恋愛場面がフィットしてはいないのである。 李雪香(李香蘭)が、開拓村を訪ねるシーンも唐突だし、そこで康吉の弟の許嫁を康吉の妻と勘違いして、恋に絶望し、共産党員の兄の薦めで匪賊のメンバーとなるという設定には、やはり無理がある。さらに、その李雪香が誤解に気づき、自分と日本人の恋人の仲を裂こうとした共産党員の兄弟の策略に気づき、恋の故に抗日派を裏切って、ゲリラの襲撃を康吉に伝えるというシーンに至っては、あまりに荒唐無稽にみえてしまう。
 中国人が満州にいる日本人をどのように見ているかという視点が完全に欠落しているから、この映画はやはり日本人によって日本人のために作られた作品である。この映画の李香蘭は、それまでの満映の作品とは違って、基本的には日本語を話している。それはどうみても中国人の話す日本語とは全く違う流暢な日本語だから、どうして当時の多くの日本人が彼女を中国人と思ったのか理解に苦しんだ位である。
 このように、無粋な国策映画の枠にラブロマンスを入れるというシナリオ上の無茶な設定からくる不自然さが目立つ映画ではあるが、この作品がヒットしたのはやはり映画のテーマ曲のおかげだろう。とくに、冒頭にBGMとして流れる「いとしあの星」が良い。満州の広大な景色を背景として、なかなか爽快である。李香蘭の歌う「荒城の月」は実に美しく、奉天城を背景として歌われると、異国の風物と日本の叙情が組み合わされて、独特の効果を上げている。
 映画の冒頭は「何日君再来」であるが、これは日満の恋人の別れから始まるということである。二人が再会するのは、なんと、満鉄技師と、満鉄破壊をねらう抗日ゲリラの代表として、敵味方として対峙したときであるという設定、そして恋の故に「匪賊」の仲間を裏切って、康吉とともに「心中」するという設定は、現実にはあり得ない筋である。しかし、祖国日本の生命線といわれた満州開拓に夢を託した当時の日本人には、このような荒唐無稽な筋が却って受けたのであろう。李香蘭親日派の中国娘のシンボルとなる路線が、この映画から始まるのである。