「牡丹亭」との邂逅

 シネマ歌舞伎「牡丹亭」を東劇で観た。映画は二部形式で前半は歌舞伎役者玉三郎と中国の昆劇との交流を描く部分、後半は「牡丹亭」という昆曲の代表作での玉三郎と中国の俳優との共演である。 
前半部分では、南京大学の学生達に講演する玉三郎の姿があった。講演の前に、「鷺娘」のビデオがスクリーンで上映されたことも影響しているのだろうか、とくに学生達が玉三郎を観るまなざしの熱烈さが印象的であった。「鷺娘」は歌舞伎の舞踊と音楽のハルモニアの精髄を示す作品であるだけでなく、玉三郎という藝術家の資質にもっともよく合った作品である。中国の学生達は、スクリーンで観たばかりの鷺娘の俳優が、生身の姿で演壇に登場したことに衝撃を受けたであろうと思う。荘子胡蝶の夢の故事をもじっていえば、平服を着た男性が「実」の人物で、舞台の女形が「虚」であるのか、あるいは、まったくその逆であって、舞台の女形ないしはこの世には存在しない「女」こそが実であって、普段着の男性は、世を忍ぶ「仮の姿」であるのか、その虚実皮膜を逆転させるだけの「存在感」を持ちうる役者というのはまことに貴重なものといわねばなるまい。
 それはともかくとして素顔の玉三郎丈も、30年程前のデビュー当時とは異なり、その立ち居振る舞いは背筋がピンと立ち凛としており、厳しい伝統藝道の修練を続けてきた人にのみ現れる独特の風格が現れている。南京大学での学生達との遣り取りも誠実であり好感が持てた。
 「昆曲」を日本人が歌うという事自体が私には感無量であった。嘗て、山口淑子が、李香蘭の名前で戦後の香港映画に出演したときに、昆曲風にアレンジした歌を中国語で歌ったことがあった。昆曲のメローディーは、独特の繊細かつ優美な味わいがあり、日本文化との共通のルーツを感じさせるものである。北京に代表される北方の中国文明は、基本的に遊牧民の合理性と儒教の合理主義が結びついた文化であろう。南方の文化は、被支配民族、農耕にねざす水と大地の文化であり、荘子胡蝶の夢などの生まれるに相応しい風土である。前者が犠牲の羊を捧げる天壇や、緑の全くない宮殿である故宮に代表される政治優先の文化であるとすれば、後者は、「落花に時節に君に逢う」「江南の好風景」を喚起する。
  夢と現実の交差する戯曲でありオペラであり舞踊である昆劇のなかでも「牡丹亭」は代表作の一つであるが、この作品の中には、「死者の復活」をテーマとする祝祭劇という側面がある。劇中で、墓を開くとヒロインが生前の姿で「復活」するシーンがあるのだが、これにはキリスト教の影響があるのだろうか。中国演劇の専門家ではない私には何とも断定できないが、マテオリッチによるカトリックキリスト教はすでに中国文明に入っていたわけであるし、その影響の可能性がないわけでは無かろうという気もした。
 日本でも近松門左右衛門の「出世景清」には、スペインの詩劇の影響があるということを近松の子孫の方が考証しておられたことを思い出した。近松浄瑠璃もの、とくに「国姓爺合戦」などは、東アジアを舞台とする国際性の強いものである。たとえ直接的な影響がないにしても、昆劇近松の演劇と同じくコスモポリタン的な要素があることは言えると思う。
 「牡丹亭」は、杜麗娘と柳夢梅という男女の夢物語が出発点。しかし二人の夢は、「夢の中の恋」に殉じた杜麗娘が自ら描いた絵姿が機縁となって、柳夢梅の夢に彼女が立ち現れ、二人の夢は感応道交し、隅々までコレスポンデンスが生まれる。夢も二人の間で呼応すれば現実に一歩近づくが、それだけではなく、「死・復活」という奇跡を介して二人が現実に結ばれるという祝祭聖劇である点がこの作品の特徴である。
 玉三郎丈は、蘇州語の歌唱にはたいへんに苦労したようであるが、女形としての存在感は、昆劇のなかでも際だっていた。とくに「離魂」の鬼気迫る演技には、中国の聴衆も圧倒されたようである。政治家などではなしえない文化交流といえばありふれた言い方であるが、中国と日本が文化的に密接に連関していた過去の時代をも甦らせてくれたことの意義は大きい。