歌舞伎版 十二夜 ロンドン公演

シェークスピアの「十二夜」が歌舞伎になってロンドン公演をしたことは知っていたが、昨日、たまたまそれをテレビ録画したものを放映していた。私は、そんな番組があるなどとは全く知らず、一体、何チャンネルの番組だったのかも忘れてしまったが、偶々、チャンネルを合わせたときにやっていたので、思わず、夜中過ぎまで見てしまった。
 もとのシェークスピアの原作は、四半世紀くらい前にロイヤル・シェークスピア劇団のものを一回、すこし遅れて、日本の新劇の翻訳版(たしか、江守徹がアンドリュー役だった記憶がある)を一回観劇したことがある。しかし、今回の、蜷川版の「十二夜」がもっとも面白かった。これは僕が元来歌舞伎好きだということもあるのだが、歌舞伎というジャンルに十二夜のプロットが非常によく似合っているということが最大の理由だろう。何よりも、こういう大胆な試みにチャレンジした菊五郎劇団の心意気を称揚したい気持ちである。
 原作は基本的にセリフ劇である。観客はシェークスピアの台詞を聴き、想像力の世界に遊ぶ。だからロイヤルシェークスピア劇団の上演で記憶に残っているのはやはりセリフの面白さなので、登場人物がどんな衣装をつけていたかとか、舞台装置がどのようであったかなどということは全く記憶から抜け落ちている。これに対して、歌舞伎版の「十二夜」は、セリフ劇ではなく、オペラやバレーのようなもの、文字通り「歌舞伎」なのだから、セリフは二次的であって、それよりも舞台効果、衣装、俳優の所作が、独特の夢幻的な世界を醸し出していた。
 とくに印象に残ったシーンとして、シルビア(獅子丸)がオーシノウ侯爵の前で踊るシーンを挙げたい。これは言ってみれば三味線の本格的な伴奏で踊る新作舞踊といった趣だが、菊之助演ずる獅子丸の出立ち、紫の鉢巻きがなんとも江戸時代の若衆歌舞伎もかくやというような雰囲気を感じさせた。女優が禁止されて若衆が登場し、その若衆も、当時の社会秩序を紊乱するという疑いがかけられたころの危うい感覚を彷彿させるものであった。
 もう一つ、蜷川の演出で面白かったのは、マルボーリオと道化を同一の役者(菊五郎)に演じさせていたところだろう。性格付けの全く違うこの二役を同じ役者が演じ分けるということは欧米の演出家には考えられないことではなかろうか。しかしさすがに、菊五郎は見事に二役を演じきっていた。
そして、こういう演技を前にすると、登場人物の性格という物が、元来「実体」のないものであって、あるいみで、役者も俳優も、そうして観客もまた、ピューリタンのマルボーリオであると同じに、道化でもあるということに、気づくのである。
 いうまでもなく歌舞伎では男性が女性のキャラクターを演じる。そこでは男性・女性というジェンダーの差異が相対化され同一の人物が両方を演じつつ取り違えの喜劇を演じる。こういう筋立てはもともとのシェークスピア劇にあったものだし、男装の麗人を少年俳優が演じるというのもエリザベス朝時代の作劇術の一つであったろうが、女優を使う現代ではそういう趣向の面白さは消えてしまう。むしろ、歌舞伎という近代西洋とは異質な演劇の世界の中で、シェークスピア劇の中にもともと潜在していた可能性が開花したというべきだろう。近代演劇の常識をユークリッド幾何学であるとすると、蜷川と菊五郎劇団の創意工夫によって、ここでは、非ユークリッド的な、交わらぬ平行線が交差するような演劇空間が現出したのである。

 [倫敦の沙翁舞台の華やぎて三味の音流る歌舞伎十二夜]