日本舞踊「鷺娘」を見て

 科学は普遍を目指すが、藝術は個別性を目指す。いや、正確に言えば個性に徹することによって普遍を獲得するのである。この場合、特殊なもの、他に類例を見ないものがなぜ普遍性を獲得するのであろうか。その理由は、藝術は単に客体的な普遍性(共通性)を目指すのではなく、主体を通した普遍性を目指すからである。だれもが主体であり、世界全体を自己のかけがえのない観点から把捉し、世界に向かって、そのかけがえのない個性を表現するという点で、普遍なのである。したがって、あくまでも特殊を通しての具体的普遍なのであって、特殊を捨象した抽象的普遍ではない。
 今日は歌舞伎座の新春公演の千秋楽。たまたま時間があったので、昼の部の最後にある「鷺娘」を見に行った。気まぐれな観劇であるから当然、一幕見。人気演目だけあって4階席は満員の立ち見である。
 この「鷺娘」、人形浄瑠璃の「曽根崎心中」とならんで、海外公演でもっとも歓迎される演目の一つである。その理由は、これが世界の何処にもない日本独自の伝統に属しながらも、その特殊性に徹することによって、驚くべき普遍性に達している藝術作品であるからだ。明治のある歌舞伎役者は、西洋のバレーについては何も知らなかったが、たまたま来日したロシアの舞踊家によって演じられた「瀕死の白鳥」に感激し、ただちにこれは西洋の「鷺娘」だと言ったそうである。ここには、洋の東西に於いて、それぞれ特殊に徹した普遍性を獲得した藝術の見本があるように思う。
 たとえば、女形によって踊られるこのような舞踊は、中国の京劇のような類似例は有ろうが、かくまで美的洗練の極に達したものは日本独特のものであろうとおもわれる。しかし、女形が女性を演ずるということ、しかも少年ではなく成人の、場合によっては老齢期に達した男性が女性を演じるということは、まさにアリストテレスが演劇の本質にあげた「ミメーシス(まねごと)」を体現したものではないだろうか。藝術とは「仮象」を通じてものの本質を表すことなのである。玉三郎が演じる鷺娘は、あるときは「鷺」という鳥の化身であることを踊りによって示し、あるときは江戸のコケティッシュな街娘の姿を「まねる」。そのまねごとの中に、対象の本質が現れるのである。
 幸い、Yutube で「鷺娘」が収録されていた。様々な国の人がコメントしていたが、これもなかなか面白い。おそらく日本について何の予備知識も持たぬ人がこの舞踊を見たときに受けるショックは相当なものであろうと想像される。ここにある色彩と音楽と舞踊の織りなすハーモニーは、まさに一級の芸術品のみが与えることの出来る美、特殊日本的なものを通した普遍的な美の表現に他ならぬからである。

 

[女より女の如く君の舞ふ輪廻の笠の花匂ひけり]