世界公民宣言

 いままで私は自分のハンドル名としてCosmopolitanを使い、それを日本語で「世界市民」と言ってきたが、最近は、「Cosmopolitan=世界公民」と言いたい気持ちが強くなってきた。
 その理由は、「市民」というと都市の住人であるという意味合いがどうしても抜けないからだ。
 農村に住んでいても、コスモポリタンでありうる。たとえば宮沢賢治は、盛岡という田舎に住んでいたが、同時代の誰よりもコスモポリタン的な広い宇宙に住んでいたと思う。そういうことが「市民」という言葉では表現しにくい。
 ただし、「公」とは何か。私の考える「公」は、それは単なる三人称的な客観的な立場ではなく、むしろ「一人称の個に徹底することによって、一切の「私性」をのりこえた立場を言う。それは一個の人間(person=人格)と深く結びついたものだ。ただし、その「個」は、いうなれば「無の場所に於いてある個人」であって、「有として実体化された私」ではない。
 逆説的ではあるが、「無私の個人」に徹することこそが、真に世界公民となるための基盤なのである。私にとって、個と普遍の中間にたつ類種的存在−民族、国家、宗教組織など−は、真の意味での普遍(公的なるもの)ではなく、実体化された「私的」なものにすぎないからである。
 確か勝海舟だったと思うが、幕府などは「私」に過ぎないから、よりひろい「公」のために大政奉還を考えるべきであるという発言があった。これぞ「無私の個物」を自覚した先覚者の言葉である。
 その考え方を徹底するならば、幕府にせよ薩長にせよ、いや、明治以後の大日本帝国もまた、要するに集団的エゴイスムであるという点では、「私的」存在に過ぎないだろう。 その集団的エゴイズムの罪悪を我々は歴史の教訓として知っている。そして、現在でも愛国心に名を借りた集団的エゴイズムから我々は解放されていない。
 そういう「物象化的錯視」による国家の実体化=実は私物化を離脱して、「無私の一個物」の立場に徹することが、じつは真の意味で普遍的な人間にになることなのである。すなわち、一個の人間として、世界に開かれた活動的存在として、世界公民の立場で語ること−いかなる集団的エゴイズムからも自由になって、その立場から、全ての人々が、互いに他者の自由を尊重しつつ、創造的にかつ平和に暮らすべき共同体を構築するのが「世界公民」の立場である。
 私は自分のハンドル名にそういう願いを込めて、如何に拙い意見であってもこれからも書き続けたいと思っている。