中国政府による拉致事件ーパンチェン・ラマの誘拐

http://www.tibethouse.jp/panchen_lama/gc_nyima.html

にあるように、中国政府は、チベット阿弥陀仏の化身として信仰の對象となっているパンチェン・ラマ11世こと、ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年を拉致・誘拐したうえで、親中派の家に生まれたチベット少年をあたらしくパンチェン・ラマとして認定した。本物のパンチェンラマとなるべき少年の行方は現在の時点に於いても不明である。あたらしいパンチェン・ラマが中国の傀儡となることは目に見えている。傀儡のパンチェン・ラマは云ってみれば満州国皇帝の溥儀のような者となるであろう。北京からラサまで直通の鉄道を引いて以来、チベットの植民地化は着々と進行し、ラサの駅にはチベットが中国領土であることを誇示する看板が立てられている。そして、すべての報道が中央政府によって管理されている中国では、国民の不満を、愛国主義による大衆の示威運動によってそらせているのである。

信教の自由こそが基本的人権の基礎である。国家による宗教統制・管理のあるところには、かならず人権の抑圧がある。
現在の日本人も、中国政府の宗教禁圧を他人事と考えるべきではなかろう。宗教の影響力がなくなると、人々は国家という偶像、金銭という偶像にしがみつくようになるが、その点では現在の日本も中国と大同小異であるからだ。

私は「戦争と平和と歌−李香蘭心の道」に掲載されていた山口淑子リビアの革命家カダフィ大佐との対話を思い出した。(176頁)

カダフィ:あなたはどんな宗教を信じていますか?
淑子:仏教・・・でもイスラムのように生活と一体ではなく、先祖の宗教を受け継いでいるだけです。
カダフィ:ではあなた達日本人は、何を崇拝し、何を心のよりどころに生きているのですか?宗教がないと人間がだめになってしまうでしょう。」

山口淑子は、カダフィとのやりとりを回想した後で、「砂漠の底から、文明の根源を問いかけられて、一陣の風が吹いてくる、そんな気分の一瞬でした」
と書いている。宗教の問題こそが、人間のことを考える根本であることを忘れてはなるまい。