ダライ・ラマの弁明−平和の教えとしての仏教

 チベット仏教のなかには、深い哲学的な自覺が含まれている。それは異なる宗教を持つ人にも開かれた教えであるし、地球的な視点からチベットの文化ととも人類が継承すべき貴重な思想的遺産である。中国政府は共産主義という19世紀に成立したイデオロギーにしがみつきながら、前時代的な国家主義全体主義を背景とする愛国教育で、共産主義の思想的破綻を取り繕おうとしているが、いずれ、そういう欺瞞が成立たなくなるのは避けられないだろう。
 宗教という超越の次元こそは人間にとって最も根源的なものであるが、今の中国には信教の自由はなく、共産党による露骨な宗教の管理・支配が行われている。ダライ・ラマと並ぶチベット仏教の将来の指導者となるべきパンチェン・ラマ少年を、共産党の特務機関が拉致し、そのかわりに中国政府の息のかかった別の少年を、勝手にパンチェン・ラマにでっち上げるという、チベットの良心を逆なでする冒涜的行為を為して恥じるところがないのが、今の中国共産党政府の宗教政策の実態なのである。チベットに住むチベット人が宗教的な危機感を持つ理由のひとつがそこにある。
 チベット仏教には、民族宗教としての側面とともに、仏教が本来それであった世界宗教としての側面がある。中国は明らかに前者の側面しか見ていない。中国を脱出したダライラマは、印度の地にあって世界宗教としての仏教のもつ現代的な役割を自覚したように見える。彼は英語を学び、英語でも説法を行うようになった。仏教の伝道者としてのダライラマは、今日、ローマ法王と並んで最も影響力の大きな宗教人である。彼は平和を作り出す人であり、ノーベル平和賞を受賞したのは当然である。
 ラサ大虐殺を受けて、BBCのインタビューに答えているダライラマの話を聞こう。

チベット人にとって今は受難の時である。しかし、このインタビューでダライラマ自身は、「オリンピックの開催は中国にとっては良いことであるから反対はしない」とのべている。それを認めた上で、人権を抑圧せずに、平和の祭典であるオリンピックのホスト国にふさわしい国となるべきことを中国に求めている。宗教のもつ超越の次元を知らぬものには、ダライラマのこの発言は理解できないだろう。かれは闘争を欲していない。このダライラマの態度と、凡ての問題を政治闘争としてしかみない共産党との差は歴然としている。人海戦術による力による圧力で解決しようとする中国政府、およびその宣撫工作に踊らされている大衆にたいして、ダライラマは仏法という次元から語っている。だから、相手と同じ土俵で闘うことはしない。政治的な受難の時こそ宗教の持つ「真実」の力が示されるときではないだろうか。