政治と演劇的なるもの−自己の「顔」

李香蘭は女優です、藝者じゃありません。宴会で酌などさせないでください」 というのは確か、テレビドラマ「李香蘭」で中村獅童が演ずる甘粕のセリフだった。 テレビドラマと事実は異なるし、このドラマの甘粕はハンサムな二枚目で李香蘭に惚れている男の一人として描かれていたから、そういう点は割引すべきであろうが、宴会で女優に酌などさせないというのは、実際に甘粕の見識であったらしい。甘粕はパリに行って演劇というものが、西欧文化の中で高い位置を占めていることを知っていたのだろう。 つまり俳優は娼妓や河原乞食ではないのである。

民主制の発祥の地ギリシャでは、演劇コンクールで優勝することは市民にとって名誉であった。 悲劇「アンチゴネー」は、国家への忠誠心と兄弟愛の矛盾相克を描いた傑作だが、 作者のソフォクレースは政治家でもあった。デモクラシーの体制下では、政治家には俳優=行為者 acteur (actrice)の質がなければならない。民主主義は、行為=演技によって大衆の心理を掴み大衆を動かす政治技術を必要とする。このような政治と演劇との結びつき、映画という新しいジャンルにも受け継がれたと思う。

むしろ映画はマスメディアとして演劇以上に大衆の心を掴むから、大衆社会での影響力は大きかったろう。民主制を背景として生まれる独裁者や大統領にはどこか俳優的なところがもとめられる。ヒットラーはワイマール憲法という民主的な体制のもとで大衆の支持を得て合法的に独裁者となった男である。ナチスほど映画の持つ宣伝効果を重視した政党はあるまい。そしてその総統自身がたいへんな「役者」であった。ソビエト共産党も政権を取ると、エイゼンシュタイン十月革命をそのまま再現するような映画を撮影させている。革命の「父」レーニンはそういう映画では「主役」でなければならなかった。民主主義の擁護者を持って任じているアメリカも、大統領には役者としての「顔」が求められ、適切な状況で印象深く大衆に感銘を与える演説が出来なければならない。そしてなによりも「行動力のある人」つまり俳優=行為者であることが求められるのである。そして米国では映画俳優がついに大統領にまで出世したことは記憶に新しい。

戦時中の中国の場合はどうだったろうか。やはり、演劇や映画の持つ大衆に及ぼす影響は重視されたのではないか。そうでなければ映画俳優を「文化漢奸」として処刑するという発想はでてこないだろう。いや戦時中ばかりではなく、共産党の一党支配が継続している現代中国でも、その文化統制のシステムは依然として継続されているようである。もっとも、いまの共産党幹部の顔は、優秀な技術官僚の顔であり、毛沢東周恩来のような主役をはれる役者はもはや存在しないが。

戦時中の日本のばあい、日本の「顔」にふさわしい役者は誰であったか。東条英機の顔は律儀な軍人のそれであり、大衆の心をとらえるようなものではなかった。天皇国家神道の信仰の対象であり、一般大衆は、玉音放送までその声を直接に聴いたことはなかったのだから論外である。

映画「支那の夜」の長谷川一夫は、そういう意味では、「支那事変」当時の日本を象徴する、日本人の「顔」、日本人のあるべき自画像のひとつであった。それは「侵略者の顔」と言うにはほど遠い二枚目スターの「優しい顔」であるが、そのことがこの映画の持つ政治的な性格を隠蔽するのに効果があった。美男美女の登場するメロドラマという側面も持っていたからである。しかし、長谷川一夫は、中国大陸に乗り込んで献身的に働く理想的な日本人を演じたのであり、その「真意」を理解して親日派に転向する中国人を象徴する女性として位置づけられた李香蘭と結ばれるという筋立ては、政治的なプロパガンダとして、日本人の自尊心を満足させるものでもあったろう。ただし、これはあくまでも日本人の描いた自画像であり、中国人からみた日本人の「顔」ではなかったことはいうまでもない。

我々が自画像を描くということ自体は意味のあることである。いやそれ以上に自画像や自伝は、われわれにとって必要不可欠とさえ言える。我々は自己がいかなるものであるか、それについての物語を本質的に必要とするからである。しかし、その自画像が、他者の承認なしで描かれる時に持つ危うさというものも、我々は経験から認識しているはずである。

山口淑子は何冊もの自伝を書いているが、そのなかでは藤原作弥とともに書いた「李香蘭 私の半生」がもっとも読み応えがある。それは、この自伝が、山口淑子一人ではなく、藤原という他者の承認という手続きを経ているからであろう。山口淑子は、後年、自分の出演した大陸三部作をフィルムセンターでみて慚愧の念にとらわれたと語っている。自分の過去の顔を、半世紀以上隔てて「他者」として見たときに、彼女がその当時担わされていた政治的な役割をまざまざと見せつけられて衝撃を受けたというのである。我々は、他者の顔は四六時中見ているが、決して自己の顔は、直接に見ることはできない。自己がいかなるものであるかということは、他者を通してしか認識できないところがあるのである。自己認識は他者の承認を必要とする。我々は、どうやら、他者の罪を暴くときには自分を正義の味方と錯覚するが、そのぶん自己がそれとしらずに犯している罪には目をつぶる存在のようである。このことは個人相互の関係について言えるだけでなく、国家と国家との関係についても言えるのではないだろうか。