瘋狂世界−ひたすら歌い続けること

 「李香蘭 私の半生」のなかに上海での夜来香コンサートの最終日に、李香蘭がアンコールに応えて、最後に「瘋狂世界」を唄ったとあったのが妙に記憶に残っている。彼女はこの「瘋狂世界」という歌をレコードに吹き込んではいない。これは当時の中国で最も人気のあった周璇の持ち歌であるからだ。上海のグランド・シアターでの夜来香コンサートの最終日には、周璇も観客として来ていて最後に花束を渡してくれたというから、周璇の了解を得てこの歌を唄ったのだろう。

鳥はいのちがけで歌い、花はすきなだけ咲き誇る、あなた達はとても愉快よ (鳥兒拼命地唱 花兒任性地唱 你們太痛快呀,太痛快呀太痛快)
鳥はなぜ歌い、花はなぜ咲くの、あなたたちはとても気妙よ(鳥兒爲什麼唱 花兒爲什麼開 你們太奇怪呀,太奇怪亞太奇怪)

という言葉で始まる「瘋狂世界」は「夜来香」とおなじく黎錦光の作曲であり、また「萬世流芳」の主題歌「賣糖歌」と「戒烟歌」とおなじ李雋青の詩。映画「漁家女」の挿入歌であり、気の違った少女の幻想世界を唄ったものであるという。この歌をかねがね聴きたいと思っていたが、幸いYouTubeに周璇自身が唄ったものがアップされていた。


 日本の敗戦が確定的になったことを知った日にも山口淑子は上海競馬場のアンコール公演で唄わねばならなかった。まるで白日夢のような気持ちがしたと彼女は回想している。その翌日の8月10日、ベラ・マゼール女子について声楽の最後のレッスンを受けたとき、彼女は、日本の敗戦という事実を前にして全く虚ろな気持ちを隠せなかった。そのときのマゼール女子の言葉は、

「うたいなさい。日本語で、ロシア語で、英語で、中国語で、何もかも忘れて思い切り唄いなさい」

というものであった。日本の敗戦が確定し、国家という後ろ盾がなくなった時点でも、なおも歌を歌い続けなければならなかったそういう彼女自身のアイデンティティ・クライシスを考えつつこの歌を聴いた。山口淑子は、上海が国民党によって支配されるようになると、漢奸として裁判にかけられる。境遇は逆転して、かつて野外コンサートで喝采された上海競馬場において李香蘭は処刑されることが決まったなどと新聞に報道される。彼女が大勢の中国人の聴衆のこころを掴んだことの反動がくる。

上海のグランドシアターでのリサイタルは、指揮者のほうが入れ替わるのに、歌手は一人だけというある意味では歌手生活の生命をも奪いかねない過酷な歌唱を要求するものであったといわれる。それでも彼女は唄い続けた。日本の敗北を間近にした上海で、すべてを忘れて、政治を遮断した藝術世界、すなわち「瘋狂世界」においてひたすら唄っていたのである。