スパイ説による風評被害−過酷なる時代の流れを越えて

「私の鶯」は、戦時中の厳しい条件の下で、少数の映画人が優れた映画を後世に残したいという強い意志のもとに制作された映画であったことは間違いないし、日本で最初の本格的なミュージカル映画としても記念すべき作品である。しかし、この映画に登場する白系ロシア人の芸術家たちが、日本の映画に出演するという事自体、当然、政治的な意味を持っていたから、当時のソ連の共産政権からみれば警戒すべきものであったろう。

山口淑子も、のちに、ソ連政府の特務機関のスパイによってハルビンや上海での行動を逐一調査されていたということを戦後になってから知らされた。彼女や岩崎昶は、日本の特務機関のスパイからも調査されていたので、自分の生きた「時代の過酷さ」を思わずにはいられなかった、と後年になって回想している。

ロシア語、中国語、日本語を自由に話す女優であった李香蘭自身がスパイだったのではないかというデマないし中傷も古くから彼女には付きまとっていた。川島芳子のイメージと重ね合わされたのであろう。それは、李香蘭というキャラクターが、謀略と諜報活動の渦の中にあったハルビンや上海のような国際都市で活躍していたことと切り離せない。この風評は、戦後になっても山口淑子本人につきまとい、その噂を払拭するのに彼女自身が非常に苦労することとなった。

山口淑子の自伝には、上海で漢奸裁判を受けていたときに、国民党のスパイになれば刑の執行を免除してやろうという誘いがあったことが記されている。彼女の幼なじみであったリューバの一家はボルシェビキで、満州におけるソ連の諜報活動に関わっていたこと、そのために、後に、リューバの兄は日本軍によって虐殺されたらしいことが暗示されている。しかし、そのリューバと上海で再会した時には、思想や主義を越えた友情が蘇り、「ヨシコチャン」はリューバのお陰で命を助けられたのである。しかしながら、当時の日本軍の宣撫活動の担当者から、ソ連大使館に勤務していた「リュバチカ」と「ヨシコチャン」の友情もまた、政治的に利用される危険を孕んでいたといえよう。

戦後、山口淑子は、今度は共産党のシンパではないかという噂に悩まされるようになる。現在からみれば一笑に付すような話ではあるが、「国際的スパイ活動の疑い」で「ヨシコ・ヤマグチ」のニューヨークでの活動を監視していたFBIの文書があったことが知られている。そこには
「日本でトップの座にあるこの人気映画女優は、信頼できる筋によると、日本軍による中国占領時代からの長きにわたり国際スパイとしての訓練を受け、多数の中国向け日本軍宣撫映画に出演した。ヤマグチは中国語、日本語、ロシア語、英語の四カ国語に堪能である。現時点でも、中国人、日本人、朝鮮人共産党員と連絡を保っている」
というまことしやかなデマ情報が入っていた。(1951/1/22 ドウス昌代の「イサム・ノグチ−宿命の越境者」下巻138ページ参照)

レッドパージの時代のアメリカを如実に示すデマ情報とはいえ、入国査証を拒否された山口淑子は、イサム・ノグチととの新婚生活を米国で送ることが出来なくなり、深刻な風評被害を被ったのである。朝鮮戦争に中国が参戦することによって、米国の中国に対する警戒心が増大したことは、ブロードウェイでミュージカル歌手になるべく努力していた山口淑子にとって不運であった。彼女がオーデションに合格し出演が内定していたミュージカル「マルコ・ポーロ」が上演中止になり、米国でミュージカル歌手としてデビューする時期が遅れてしまったこと、その後のビザの発行拒否騒動によって、夫婦ともに心労したあげく、ほぼ一年半を棒に振るような結果になったからである。

上戸彩李香蘭を演じることが決まったときに、戦後の山口淑子を知っているひとの間から、あんな苦労知らずのタレントに李香蘭が演じられるはずがないという批判があった。たしかに、テレビドラマの李香蘭は、とくに上海時代を描く場合に、いささかノーテンキなところがあった。しかし、僕自身は、上戸彩の演じた李香蘭には個人的に非常に好感を持った。彼女の持っているような天性のイノセントな性格は、「李香蘭」という複雑なキャラクターの表現の核心部分になければならぬものだと思う。