「原発は危険だから建てるべきではない」−−中央日報のコラムについて

「原発は危険だから立てるべきではない?」と題した中央日報(日本語版)のコラムを読んだ。「?」がついているのは、このコラムニストが原発廃止論に懐疑的であるからで、彼の結論は「重要なことは原発の安全であり、原発の必要性の有無ではない」であった。周知の如く、韓国は日本と同じく原子力発電プラントの大幅な増設を計画しており、海外にも売り込もうとしている。その国是(?)を中央日報のこのコラムニストも、自明の前提として疑っては居ないようだ。要するに、原発推進という韓国政府の基本方針を変えずに、原発の安全性を高めるべきだ、という意見なのである。そのコラムの後半部分を引用してみよう。

この日曜日に東京都心で市民団体が原発運営中断などを求めるデモ行進があったというが、それが主流では決してない。むしろ大規模原発反対デモが起きたのはすでに2021年の原発閉鎖が決定しているドイツだった。原発事故の危険性を自ら感じながらも大規模反対デモが起きないのは一言で“現実”のためだ。気分が悪くて不安なのと、電気に支えられる生活をこれ以上できなくなるかもしれないという不便を突き詰めて考えるとどちらを選択するかの問題という話だ。二酸化炭素排出でもたらされる地球温暖化が地球的問題になる状況で化石燃料を燃やす火力発電は代案にできないという問題もある。節電がもちろん主要な代案だがどこまで耐えられるか自問してみる必要がある。話は簡単だが身についた生活の便利さを簡単に捨てることができるかという問題だ。太陽光・風力・潮力・地熱などさまざまな代替エネルギーがあるというが、それが重要エネルギー源になるには最低でも20〜30年は必要だ。重要なことは原発の安全であり、原発の必要性の有無ではない。

確かに、今の日本では、まだ大規模な原発反対デモは起きていないが、それは日本国民が、その問題を深く考えるだけの余裕がなく、東北関東大震災津波の被災者救援を第一に考えているからであろう。つまり、目の前に帰るべき家もない被災者がおり、放射能汚染地帯から緊急避難している人々までも含めて、どこに収容し、そのように救援すべきかという困難な状況が、政治的な意見の違いを一時的に留保して居るからに過ぎない。それは、決して「気分が悪くて不安なのと、電気に支えられる生活をこれ以上できなくなるかもしれないという不便」などという暢気なレベルの選択の話ではない。
東京電力や、原子力安全・保安院の責任については当然、原発事故の事後処理が終焉した段階で厳しく追及されるだろう。これまで、原発の危険性を十分に報道してこなかったジャーナリズムの責任も同じように批判されよう。
ドイツやスイスのように脱原発を国家の基本政策に据えていくべきか、あるいはフランス、米国、韓国、日本のように、原発を推進し、世界各国に「死のセールスマン」として原発を売り込むことを国策とするのが正しいのか、福島原発事故は、自然災害に耐え得なかったというかたちで、人間の技術信仰を打ち砕いたのである。今こそ、「原発安全神話」をばらまいてきた推進派の責任が問われなければなるまい。「?」を付けるべきは、原発賛成派がこれまで流布してきた「安全神話」であり、人間の持つ科学技術の限界をわきまえぬ「科学信仰」である。
私は、「原発は21世紀の戦艦ヤマトだ」という題で、昨日、日本が時代遅れの巨大プラントと共に沈没する危険について警告した。
原発はその存在自体が人間の生命と環境にとって危険なのであるから決して建設してはならない」のである。