「Love is blue(Marty Robbins)」 と 「恋は水色(天地真理)」を聴き比べる: 青の「悲しみ」について

Love is blue という曲は一度聴けば、あああれか、と誰しも思うようなヒット曲であるが、弦楽器だけでなくてボーカルで唄う場合、英語やフランス語の歌詞で唄われる場合と、日本語の歌詞で唄われる場合では、曲の与えるイメージががらりとかわってしまうことに気づいた。
まず英語の歌詞で唄われる場合、Blue とは、基本的にメランコリー(陰鬱)を象徴する色であり、日本語の「水色」がもつ透明感、空の青さに悲しみが吸い込まれるような感覚とはほど遠いことに注意したい。これは、男性が歌う場合も女性が唄う場合も基本的には、英語やフランス語では鬱屈した暗い情念が唄われるのが基本である。ピカソの青の時代の絵画は、青春の持つメランコリーを青で表現したが、このメランコリーはたとえば次のように唄われている。

Blue, blue, my world is blue/ Blue is my world now I'm without you
Gray, gray, my life is gray /Cold is my heart since you went away
Red, red, my eyes are red /Crying for you alone in my bed
Green, green, my jealous heart /I doubted you and now we're apart
When we met how the bright sun shone / Then love died, now the rainbow is gone
Black, black, the nights I've known /Longing for you so lost and alone

フランス語の原歌詞(Pierre Cour)でも英語訳(Brian Blackburn)でも、「青」によって象徴される情念は、灰色に転調し、寒々とした心から一転して泣きはらした目の「赤」へ、そして嫉妬に燃える「緑」へ、そして最後は闇の「黒」のなかで孤独に沈む。そこに暗く淀んだ情念は、限りなく落ち込むばかりで、「救い」がない。

これにたいして「恋は水色」という日本語の歌詞(漣健児)はどうであろうか。

まず 「恋は水色」の「水色」は、英語版の「ブルー」のもつ鬱屈しよどんだメランコリックな情念(ブルースという音楽はそこから来る)とは質的に大きな違いがある。それは

  白鳥は悲しからずや 空の青 海の青にも 染まずただよう

という若山牧水のうたにあるように日本語の「悲しさ」という言葉と良く調和している。

同じ青春の「悲しみ」であっても、こちらはモーツアルトの音楽のような「駆け抜ける悲しみ」であって、鬱屈したメランコリックな淀みや停滞とは無縁である。

日本語で普通に唄われている「恋は水色」の歌詞(漣健児)は、英語版とはずいぶんと内容が違っている。

青い空が お日様にとける 白い波が 青い海にとける
青い空は 私の恋の色 青い海は あなたの愛の色

恋は水色 空と海の色

青い空が お日様にとける 白い波が 青い海にとける
青い海と 水色の空が 愛し合って一つに結ばれる

恋は水色 空と海の色 恋は水色 空と海の色

すぐに気づかれるように、ここには、この世では結ばれぬ恋の悲しみがやがて、いつか、彼方の世界で「愛し合って一つに結ばれる」希望へと転換される趣がある。この歌詞は、もとのフランス語の歌詞からは大きく離れてはいるが、弦楽器で奏でられる音楽そのものとは、じつによく調和している。

この日本語版に最も相応しい歌手は誰だろうか。森山良子もよいが私は、天地真理を挙げたい。彼女こそは、「恋は水色」の日本語の歌詞にピッタリの歌い手なのである。
その明るい声は、すこしも停滞することなく、透明なのびやかな声で、悲しみが希望へと転調するような青春の明るい突き抜けた叙情を巧まずして表現していると思う。