三浦環と李香蘭

3月9日の日誌のなかで、昭和16年に来日したときに、李香蘭三浦環に弟子入りしたことを伝える都新聞の記事を紹介した。
http://d.hatena.ne.jp/Cosmopolitan/20080309/1205057437

三浦環の自伝はいまでも購入できるが、この本もまた面白い。
三浦環―お蝶夫人 (人間の記録 (27))
戦後になってからの聞き書きをもとに編集したものなので、何となく、天真爛漫な童女のようなお婆ちゃんの自慢話、その波瀾万丈の生涯を聴く感がある。ロンドンの蝶々夫人の公演初日にドイツの飛行船からの空襲があったなどという話、ウィルソン大統領との出逢い、トーランドット作曲中のプッチーニに日本の古旋律を教えて喜ばれた話とか、興が尽きない。彼女の歌声はレコードにもなっているそうだが、私は聴いたことはないし、舞台の状況も推測するしかないが、作曲者のプッチーニが存命中に、蝶々夫人の舞台となった日本からきた声楽家が出演するとあっては、評判になったのは当然だろうと思う。

三浦環李香蘭とはたしかに多くの点で共通するところがある。二人とも日本の島国的な規格の中に収まりきらないところがあるし、小説よりも奇なる生涯であった。「歌に生き恋に生き」を地でいっているような所もあるが、違いもある。二人とも厳しい戦争体験をしたが、日露戦争後の日本と英米が親密であった時代に英米で活躍できた三浦環のほうが、自分のすべての過去を誇り高く肯定できた分だけ幸福だったかもしれない。彼女には「祖国と母国の間に引き裂かれる」というような李香蘭の経験した葛藤は全くないから。

李香蘭三浦環に歌のレッスンを受けた期間は短いが、その人柄に接したことは、その後の山口淑子に大きな影響を与えたのではないだろうか。
たとえば、李香蘭が映画「私の鶯」で唄った「ペルシャの鳥」は、三浦環のレパートリーの一つである。日劇のリサイタルで最後に唄った「乾杯の歌」は、「オーケストラの少女」という映画で日本の聴衆にもおなじみとなったが、元来は歌劇「椿姫」のアリアであり、この歌の歌唱についてアドバイスを受ける先生としては、当時の日本で三浦環以上の声楽家はいなかったろう。

私の印象では、山口淑子は、三浦環に弟子入りするあたりから、何事も自分の決断で事をなすように変わってきている。彼女はミュージカル「李香蘭」を見た人が想像するような「悲劇のヒロイン」では決してない。運命に対して何ら抵抗できぬ受動的な存在、軍部の操り人形などでは決してなく、そのときどきの時点において、自己に与えられた状況と当時の日本の支配的なイデオロギーの枠組みの中ではあるが、常に向上心を持って努力を重ねてきた人だと思う。しかし、現実の歴史には、個人の主体的決断だけではどうにもならぬ詭計のごときものがある。そういう奔流のごとき昭和の歴史を「李香蘭 私の半生」は証言しているのだろう。