昭和16年当時の新聞記事から その1

昭和16年の紀元節前後の読売新聞と都新聞を読むと、当時の状況、新聞の論調などがよく分かり面白い。今日は、「李香蘭 私の半生」などの自伝に引用されていない記事を紹介しよう。

まず、都新聞2月9日の記事から。
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   本格的に歌の勉強
  李香蘭三浦環へ入門 −初対面は師の病床で

○・・・「満映の」といふより今はもう「日本の」スターになった李香蘭、これ迄のやうな単に珍しさや美しさだけでは、永い生命は保てない事を痛感し、本格的に歌ふ修行をする事になった。
○・・・幸ひ今は東京住ゐ、これ迄いろいろと紛擾のもとになったマネージャーとも絶縁、今後は満映東京支社で万事アレンヂして貰ふ事になった。先月の台湾巡演も満映宣伝部の手で行ひ、忙しい中で台湾の民謡を勉強してきた。
○・・・帰京後、先生に迷ってゐたが、茂木支社長の斡旋で、三浦環に師事する事となり一昨日初対面した。環女子は目下盲腸炎に引き続き腹膜炎で九段の某病院に入院中である。 そこで、その初対面は病院にお見舞いという形式で行われた譯である。
○・・・李香蘭はこれを機会に舞台、映画の生活にも一新を画する覚悟で、今日、陸海軍省を訪問一千円宛二千円の献金を行ひ、又来月の東宝劇場のエノケン、白井鐵造初コンビのレヴィュウ「浦島太郎」にも乙姫の役で出演の交渉を断り、東宝の「上海の月」にも、脚本にダメを出している。
○・・・満映でも亦、この意気を買って声楽家李香蘭の為にレサイタルを開くプランもあり、かくて今年は新しい李香蘭が生まれ出るであろう。(写真は病床の三浦環を見舞う李香蘭
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上の記事はほんの一例にすぎないが、人気に踊らされてはいない彼女の一面を伝えている。当時山口淑子李香蘭というキャラクターとは区別すべきだろう)は21才であるが、決して受け身の操り人形などではなく、主体的に行動するようになっている。後年の彼女もそうであるが、現状に安住することなく、空虚な人気に翻弄されることもなく、自分と周囲を冷静に見つめる眼を持つ聡明な女性であったことが分かる。彼女は、実に勉強家であって、新しい土地で常に新しいことに挑戦し、演目や脚本などについても自分の方から注文を出していることが分かる。とくに声楽の勉強は非常に大事にしており、可能な限り優れた先生について勉強したいという向上心の持ち主であったことが分かる。