汪兆銘とその娘−「我は苦難の道を行く」を読む

我は苦難の道を行く〈下〉―汪兆銘の真実 (文春文庫)
汪兆銘にかんする多くの書物の中で僕がこの本に興味を持ったのは、汪兆銘の娘で後にカトリックの修道女となった汪文彬への著者のインタビューが掲載されていたからである。彼女は自分の経歴については秘して話そうとはせず、インタビューに成功するまでには長い時間と努力が必要とされたようだ。
汪文彬によれば汪兆銘は、 1937年、日本軍に南京を占領された国民政府が重慶に引き下がる前に武漢に退いたころ、次のようにいったという。
「いま父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし、失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしれない。お前はそれでもいいか」
これに対して、当時17才の汪文彬は、
「父親の考えたとおりに行動してほしい、子供としては成功しても失敗しても父親はつねに正しいと思っているから」
と答えたという。そして、父親がそのときに嬉しそうに笑ったのが忘れられないと付け加えた。
汪兆銘は周知の通り悲運の政治家であった。1945年以降、彼は極悪の「漢奸」とされ、その墓も爆破された。その妻は、無期懲役となり、獄死した。汪文彬によれば、彼女は最後まで汪兆銘の非を認めなかったという。子供たちは、生きるために国外に逃れた。将来においても、中国で彼の名誉回復がなされる見込みはあるまい。
 しかし、日本と中国との和平の道を探って努力したこの文人政治家を、勝者となったもののイデオロギーの色眼鏡をはずして、その時代の中において考察するならば、そこでどのような人物像が浮かんでくるだろうか。
三浦綾子細川ガラシャ夫人を書くときに明智光秀を高潔なる文人政治家として描いた。彼女は戦前の全体主義的な教育の中で、歴史というものが、いかに時の権力者の手によって、自らの支配を正当化するために書かれるかということを、敗戦後の歴史教科書の書き換えによって切実に経験した世代である。それゆえに、従来、裏切り者として悪評の高い明智光秀の異なる側面を描こうとしたと書いている。

 たしかに、孫文の後継者と目されたころの汪兆銘は、蒋介石毛沢東などは及びもつかぬ文人政治家であり、王陽明に影響された革命家であり愛国者であった。彼が対日和平派として蒋介石と別れたとしても、それは戦争を続行することが中国の民衆を苦しめるという事情があったことを見落としてはなるまい。たとえば、抗日派の蒋介石は、日本軍の侵攻を防ぐために黄河の堤防を爆破したが、そのために大勢の農民が水害にあって死亡したのである。戦乱による国民の苦しみを前にして、強硬路線を転換し、敢えて和平を結ぶという行動それ自体を全否定することは出来ないであろう。
 対日和平を推進しようとした汪兆銘の立場を理解するためには、視点を変えて、対米和平の時期を失した日本政府と比較してみると良いだろう。本土決戦によってあくまでも米国に抵抗することがいかに国民に多大の苦しみと損失を与えるかということがわかっているならば、沖縄に侵攻される以前に和平することが真の政治家の道であったろう。和平交渉をすることの難しさがそこにある。汪兆銘南京政府は傀儡政権であったが、そんなことをいえば戦後の日本の自由党政権なども、ある意味では米国の傀儡政権である。傀儡政権が常に国民を不幸にするわけではなく、徹底抗戦が国家の基盤を徹底的に破壊してしまうこともあろう。

 政治というものが結果で評価されるとすれば、明らかに汪兆銘の決断は誤りであり、その結果、彼が予測していたとおり、末代までの汚名を着ることとなった。しかしながら、人間としての汪兆銘を道義的理由で非難することは誰にも出来まい。

汪文彬自身の生涯も波瀾に満ちたものであった。汪家の家憲のひとつ「不為良相、便為良医(良い政治家になれないならば、良い医者になれ)」に従い、彼女は医者になることを志し、香港に行くが、重慶政府のテロ組織であった藍衣社に誘拐される危険を察知して、日本に渡り、女子医専で医学の勉強をする。戦時体制のため1944年の秋に卒業を半年繰り上げて卒業し北京の病院で研修しているときに日本の敗戦を迎える。そのあとは、激烈な「漢奸」狩りがはじまり、彼女は青島にあった天主堂教会に駆け込み難を逃れた。彼女がカトリックに入信して修道女となることを決意し、獄中の母に伝えたとき、母親はそれを黙認してくれたという。それ以外に娘にとって生きる道がないと思ったのかもしれない。
しかしながら、修道女となったからといって彼女は、世捨人の生涯を送ったわけでは決してない。それ以後の彼女の、カトリック教会を基盤とする社会的な医療奉仕活動にはめざましいものがあった。米国とベルギーの大学で医学の研鑽を積み、インドネシアカトリック教会の医療活動を行い、のちにインドネシア国籍を取得して、厚生省に定年まで勤めた後、オランダに留学してプリンス・レオポルド研究所で熱帯地方の公衆衛生に関する修士の資格を取得する。そして再びインドネシアで医療活動を献身的に続けたという。